144話 迷いの森
視界を真っ白に塗りつぶす、濃厚な白濁の霧が、世界のすべてを飲み込んでいた。
その乳白色のヴェールの中を、地面に刻まれた足跡だけを頼りに突き進んでいるが、やはり厄介だ。
一歩踏み出すたび、冷たく湿った空気が肺の奥底までじんわりと染み込んで、息をするのも少し苦しくなる。
道なんてとうに消え失せていて、行く手を阻む巨岩たちが、まるで迷い人を拒むかのように、圧倒的な威圧感でこちらを見下ろしていた。
岩の表面は霜と苔に覆われ、ぼんやりとした霧の向こうで黒く浮かび上がっては、またすぐに白へと溶けていく。
その岩の歪な隙間を縫うように、リーニャを連れ去った奴らの足跡が続いていた。
泥に深く沈んだブーツの跡が、地面を抉るように残っていた。
小枝が不自然にへし折れた鋭い角度。わずかに飛び散った土の粒が、慌てて逃げ去った証拠のようにあちこちに散らばっている……。
……は? プロみたいな手際でリーニャをさらっておいて、こんなベタベタした足跡残すなんて、どういう賊なんだよ!
思わず眉をひそめた。
なんかおかしい。明らかに粗すぎる。
わざと俺を誘ってるのか?
それともただのド素人集団なのか……?
どっちにしろ、関係ねえ。
何にしろ行けばわかることだ!
濃霧が視界をほとんど真っ白に塗りつぶす中、俺は耳を尖らせ、肌で空気の動きを拾いながら一歩ずつ進んだ。
右手はいつでも抜刀できるように剣の柄をギュッと握りしめたまま。じわっと冷たい汗が掌に浮かんで、革の柄巻にべったり張り付く。
……もしこれが罠で俺を狙ってるんだとしたら、今この瞬間が一番ヤバいところだな。
それにしても……どれだけの時間、歩き続けただろうか。
起伏の激しい斜面を湿った苔むした岩肌に手をつきながら滑り降り、複雑に入り組んだ獣道をひたすら辿る。数歩先さえまともに見えない底知れぬ白い闇が、精神をガリガリと削ってくる。
点々と続く連中のブーツ跡が、まるでこの樹海の最深部へと俺を誘い込む蜘蛛の糸みたいに続いている。一歩進むごとに、心臓がどくん、どくんと激しく鳴り響いた。
霧の奥から、じっとりと湿った水音が忍び寄ってきた。最初はかすかだったそれが、徐々に耳に張り付くように大きくなっていく。
やがて、目の前を冷たく横切るように、黒い川が姿を現した。
それまで執拗に続いていたブーツの足跡が、川岸の泥の中でぷっつりと途切れていた。
「……ッ、ここで足跡が途切れてる!」
俺は思わず膝を突き、片手を濡れた地面に突き刺した。
冷たい水しぶきがブーツの先を容赦なく濡らし、指先までじんわりと冷気が染み込んでくる。
対岸は濃霧に完全に吞み込まれていて、木々の輪郭すらぼんやりと溶けていた。
泥の抉れ具合からして、奴らは迷わずこの冷たい川に飛び込み、痕跡を完全に消しやがったんだ。
チッ……!
舌打ちが思わず飛び出した。
この一寸先も見えない濃霧の中で、闇雲に川を渡るなんて正気の沙汰じゃない。分が悪すぎる。
……くそ。一旦、エレナ達がいる場所まで戻って仕切り直すしかないか。
来た道の方角を確かめようと、革の懐から愛用の方位磁石を取り出した。
しかし、真鍮の文字盤を覗き込んだ瞬間、俺の表情が歪んだ。
「ぐるぐる回ってんじゃねえか……! ここ、磁場が狂ってるのかよ」
ガラスの向こうで、磁針がまるで恐怖に狂った生き物のように高速で回転を続けている。一向に止まる気配がない。
この森の地磁気自体が、完全に狂っているってことか……。
「なら、これならどうだ……!」
磁石を諦め、俺は全身に魔力を巡らせた。
エレナの魔力を探知できれば、それでいいはずだ。
掌の上に淡い光の球が浮かび上がり、くるくると回り始めた。
しかし次の瞬間、ぱんっ、という乾いた音とともに、光はあっけなく掻き消えた。
「くそっ、認識すらできねえのかよ……!」
足跡は冷たい川底に消え、方位磁石は狂ったままだ。
そして今、頼みの綱の魔法までこの空間に封じられている。
……なら、次はこれだ。
俺は太ももを軽く叩き、力を込めて言葉を放った。
「跳躍」
瞬間、身体が軽くなり、地面を蹴った。
視界が一気に上昇し、木々の頂上付近まで飛び上がった。
その刹那、 空間そのものがぐにゃりと歪み、平衡感覚が完全に狂った。
体がコントロールを失い、勢いよく地面に叩きつけられる。
ごんっ! という鈍い音とともに、背中と肩に強烈な衝撃が走った。
息が一瞬止まり、視界がチカチカする。
「ぐっ……! なんだこれ……」
風が急に強くなった。
すでに濃く立ち込めていた霧が、さらに密度を増して俺の胸元を這い回る。
視界はほとんど真っ白で、十メートル先の木の輪郭すらぼやけ、足元は完全に白い闇に溶けていた。
「……っ、くそ」
慎重に足を進めるが、地面の感触がすぐに裏切る。
苔むした岩が急に傾き、靴底が滑りかける。
体勢を立て直した瞬間、今度は柔らかい落ち葉と泥が混じった地面に変わっていた。
「…………またかよ」
振り返ると、自分の足跡は新しく落ちた葉と霧にすっかり埋もれて、ほとんど残っていない。
方向を変えて歩き始めても、木々の間隔が妙に狭くなり、枝が顔や肩に容赦なく当たる。
地面は激しい起伏を繰り返し、登ったと思ったらすぐに下り、同じような苔むした岩、同じような白い小さな花が足元に現れる。
……さっきも見た気がする。
同じ花、同じ配置。まるで同じ場所をぐるぐる回っているみたいだ。
どういうことなんだ、ここは……?
川の水音が、最初はかすかに、でも確実に聞こえ始めた。
歩くにつれて音がどんどん大きくなり、やがて目の前に、暗く淀んだ川が横たわっていた。
この川はさっきのと同じなのか?
それとも別の川なのか、もうわからなくなっていた。
森の中にこんな大きな川が、あること自体が、不思議で仕方ない。
銀髪がびしょ濡れで重く背中に張り付き、冷たい水滴が首筋を伝って落ちてくる。黒いジャケットの内側まで湿気が染み込んで、ぞわっと鳥肌が立った。
赤いドレスの裾はクエルシオラの力で水をほとんど弾き、泥や落ち葉もさらりと滑り落ちていく。
ただ、目的の場所がまるで掴めていないせいか、太ももがじんわり熱を帯び、膝が少しずつ笑い始めていた。
どれだけ歩いたんだ……?
一時間か?
二時間か?
それともまだ三十分も経っていないのか……?
時間や距離も、全部この濃霧と木々と地形に奪われていた。
ふと足を止め、白い小さな花をもう一度見下ろした。
霧の奥に、ぼんやりと淡い光がにじ滲む場所が、見えた気がした。
白いヴェールに包まれたその光は、まるで囁くように揺らめいている。
出口か……?
あるいは、さらなる迷路への入り口か。
どちらにせよ、進む以外の選択肢はない。
どのみち俺には選択権は無いのだから。
それを確かめるため、再び足を前に踏み出した。
歩いた先で光っていたのは黄金の錫杖だった。
「――ッ、エレナ……!?」
心臓がドサリと嫌な音を立てて跳ね上がる。
嘘だろ、エレナがこれを取り落とすわけがない。
慈愛の女神アウリスが持つとされる錫杖で、今は彼女に託されているはずの遺物だと聞いた。
それがなぜ、こんな場所に転がっている?
最悪の想像が頭をよぎり、指先が冷たく震えた。
どこへ行った? 敵の罠か? クソ、どうすればいい!?
頭がパニックで真っ白になりそうになった瞬間、こめかみを強く叩く。
ふと昔読んだ漫画の台詞を思い出す。
「魔法使いってのはつねに冷静でなけりゃならない。魔法が、使えるだけが魔法使いじゃねえ。要はここを使わないと一流じゃねえのさ」
エレナはきっと大丈夫だ!
ハンスやイザベラも大丈夫だろう。
そう思ったら少しだけ落ち付いた。
地面では魔法が使えるのは、把握はしている。
完治魔法がダメならこれなら多分大丈夫なはずだ。
精神を集中して、力ある言葉を唱え始めた。
「古き大樹の記憶に眠る、木々の守護者よ新緑の息吹をまとい、花の香る小径を進め生命の賛歌に応え、森のざわめきと共に姿を現せ顕現せよ、美しき森の乙女、アルセイス!」
精霊召喚の呪文を唱えると、大地から一陣の温かいそよ風が吹き抜けた。
周囲の草木が一斉にざわめき、まるで祝福の歌を歌うように一斉に花を咲かせはじめた。
突如として地面から伸びた美しい蔦と薔薇の蔓が、空中で螺旋を描きながら編み上がっていく。
その植物の繭がハラハラと解けると、中から瑞々しい肌を持った森の乙女が、静かに地上へと舞い降りた。
「召喚に答えてくれてありがとう森の乙女よ。貴女ならわかるだろう。私の仲間が連れだされた場所を」
そのように言うと彼女はまるでついて来いと言わんばかりに前を進んでいった。
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