143話 襲撃、そして霧の誘拐
エレナからあの宣告があってから、十日が過ぎていた。
最北の街へと続く街道の旅は、予想以上に順調だった。
道中、獰猛なモンスターや、欲に目がくらんだ野盗が時折襲いかかってきたものの、少し痛い目を見せてやれば、蜘蛛の子を散らすように逃げ散っていく。
今のところ、俺が最も懸念していた最悪の事態は、幸いにも起きていなかった。
ハンスが手綱を握る御者席の隣で、俺は馬車の揺れに身を任せながら、周囲の森へ鋭い視線を這わせ続けていた。
木々の葉が重なり合う深い緑の奥は、陽光をほとんど通さず、薄暗い影が濃く淀んでいる。
風が木々を揺らすたび、葉ずれの音が不気味に響いた。
背後の幌からは、イザベラとエレナの会話が漏れ聞こえてくる。
中にいるはずのリーニャの姿は、角度の関係でここからは見えなかった。
「私達は、依頼通りに最果ての街までしか行きませんからいいんですけど……エレナさんは、本当にそれでいいんですか?」
イザベラの声は相変わらずきっぱりしている。
御者席に座っていても、眼鏡をくいっと持ち上げる仕草が目に浮かぶようだった。
「シビさんとは、ちゃんと約束いたしましたわ。たとえこの依頼をキャンセルすることになったとしても、わたくしは何時かそれを克服できると信じておりますし、一緒に旅を続けるつもりですわ」
エレナの声は澄んでいて、芯が強く、決して揺るがない。
幌のわずかな隙間から、その声が柔らかく、しかしはっきりと響いてくる。
神官服の胸元で、小さな銀の鈴が、馬車の軽い揺れに合わせてチリン……と、儚げに鳴った。
「何でそんなにこだわるのですか? 鈴の聖女のご高名はこの大公国でも知れ渡っています。あなたなら、どのような相手でも大丈夫でしょう?」
イザベラの声が、少し苛立ったように響いた。
「そう決めたからですわ。わたくしは、あの方の背中を押してあげたいのです。わたくしが負けそうになったとき、いつもそっと支えてくださった……それだけですわ」
「なんで女同士なんですか! 男女だったらまだ、そういう仲だと理解できますけど!」
イザベラが突然声を張り上げた。
その勢いに、幌の向こうの空気が一瞬、ぴたりと凍りついたのが肌で分かった。
馬車の小さな揺れさえ、急に大きく感じられるほどだった。
「そう言われましても……わたくしには、どうしようもありませんのよね」
エレナは少し困ったように、くすりと微笑みながら答えた。
優しく、けれど決して揺るがない、芯の通ったトーン。
その微かな笑い声が、まるで耳元で直接囁かれたように、驚くほど鮮明に俺の鼓膜を震わせた。
――ドキン。
胸の奥が、大きく跳ねた。
その瞬間だった。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
鳥肌が立つような、得体の知れない殺気。
すぐ近くの草むらから、ビンビンと粘つく視線が突き刺さってくるのを感じた。
「ハンス、止めろ」
俺が低く、鋭く言い放つと、ハンスはビクリと肩を跳ねさせて手綱を強く引いた。
馬車が急ブレーキをかけ、車輪が砂利を噛む大きな音を立てて止まる。
「急にどうなさったんですかい!?」
「気のせいならいいが……殺気を感じた」
俺が短く返すや否や、客車の中からエレナの声が凛と響き渡った。
「皆様も、気を付けてくださいませ!」
その警告を背中に受けながら、俺とエレナはほとんど同時に馬車から飛び降りた。
息を合わせた動きは、これまでの旅で自然と身についたものだった。
地面に足を着けた瞬間、俺は即座に戦闘態勢を取った。
まさにその地時頭上から、無数の矢が黒い雨となって降り注いだ。
「――ッ!」
俺は即座に風の乙女シルフの力を呼びかけた。
すると、耳元で小さな笑い声のような風の囁きが聞こえた気がした。
次の瞬間、周囲の空気が一気に動き出し、柔らかくも力強い風の渦が俺とエレナを包み込んだ。
ビュオオオッ! という鋭い風切り音とともに、突風が螺旋を描いて吹き荒れる。
頭上から降り注ぐ矢の雨は、その風の流れに捉えられ、まるで枯れ葉のようにかき乱された。
矢羽根が折れ、鏃が地面に突き刺さる音が次々と響く。
一本として、俺たちに届くことはなかった。
愛用のグラディウスを勢いよく引き抜いた。
刀身に宿る淡い月光が、薄暗い森の奥に青白い光の軌跡を描く。
まるで冷たい月そのものが、俺の手に降りてきたかのように輝いていた。
地面を強く蹴り、身体を一気に加速させる。
先頭の男が振り下ろした斧を、刃の腹で滑らせるように受け流した。
火花が散り、金属同士の甲高い音が響く。
そのまま懐深く潜り込み、肘を思い切りみぞおちに叩き込んだ。
男の体がくの字に折れ、息が詰まる呻きが漏れる。
左右から同時に迫る刃を、ステップで紙一重にかわす。
風を切り裂く剣閃を最小限の動きでやり過ごし、反撃の峰打ちを叩き込む。
月光が激しく閃くたび、野盗が一人、また一人と泥の中に沈んでいった。
息つく暇もない乱戦の末、すべての敵を倒しきった。
しかし、結局――俺は誰一人として殺せなかった。
地面に転がり、うめき声を上げる男たちを見下ろしながら、俺は肩で荒い息を吐いた。
月光のグラディウスを裏返し、柄を握り直す。気絶させるのが精一杯だった。
刃を返すたび、胸の奥が重く疼いた。以前の俺なら、ためらいなどなかったはずなのに。
「シビさん。まだ日にちもありますわ。シビさんが先日おっしゃったことも、決して間違っては――」
「きゃぁっ!」
エレナが言い切ろうとしたその瞬間、馬車の方から鋭い悲鳴が上がった。
――リーニャだ!
倒したはずの相手が回復したのか……。
心臓が凍りつくような焦りが全身を駆け巡った。
俺は即座に振り返り、馬車へと駆け寄った。
御者席に座っていたハンスが、手綱を握ったまま上半身を前のめりに倒れ込んでいた。
顔が胸に埋まるようにうなだれ、完全に意識を失っている。
「ハンス!」
さらに幌の近くまで駆け寄り、カーテンを乱暴に引き開けた。
中ではイザベラが眼鏡をずらしたまま、座席に体を預けるように倒れていた。
リーニャの姿は……どこにもない。
一瞬で血の気が引いた。
「クソッ、しまっ――!」
俺は即座にリーニャの気配を追って駆け出そうとした。
しかしその瞬間、周囲の空気が急激に冷たく淀み始めた。
白い。
濃密な霧が、まるで生き物のように森全体を飲み込んでいく。
一瞬前まで見えていた木々の輪郭が溶けるように消え、視界が真っ白に塗り潰された。
鼻先さえも霞むほどの異常な濃さだ。息を吸うと、湿った冷気が肺の奥まで染み込む。
一寸先も見えない。
足音も、声も、すべてが霧に吸い込まれてしまう。
これでは追うどころか、方向感覚すら怪しくなる。
ハンスとイザベラを介抱している間に、倒したはずの野党どもは回復して全員逃げおおせていた。
この濃霧のせいで、俺たちはそれに全く気づけなかった。
「エレナ?」
「二人とも大丈夫ですわ。気絶しただけで……深手はありません」
エレナの声は落ち着いていたが、わずかに緊張が混じっているのが分かった。
俺は歯を食いしばりながら、二人が回復するのを待った。
霧は一向に晴れる気配がない。
体感でおよそ三十分は経っただろうか。湿った白い闇の中で、時間が異様に長く感じられた。
「いってぇ~……」
ハンスは首を横に振りながら、顔をしかめて体を起こした。あくせくした様子で肩を回している。
イザベラもどうやら目を覚ましたようだった。眼鏡を直す指先がまだ少し震えていた。
「は……そういえば、リーニャが」
イザベラがぼんやりとした声で呟いた。
「あぁ、攫われた」
俺が短く答えると、馬車の中に重い沈黙が落ちた。
「助けに行かないと」
俺は後ろの幌を乱暴に引き開け、中を見せるようにした。
「見ての通りだ。この濃霧じゃ、探しに行きたくても行けねえよ」
その言葉の後、わずかな間を置いてイザベラが口を開いた。声が低く、棘を含んでいる。
「シビさん。貴方が人を殺せなくなったから、こうなったんですよ」
眼鏡の奥の視線が、冷たく俺を射抜いた。
「は? 俺のせいだというのか?」
「以前のあなたなら、殺さなくてもきちんと処理できていたはずです。貴方はそれさえもできなくなっています。私としては……引退を考えた方が良いと思います。あなたほどの実力者なら、後進を育てる道もありますよ」
彼女の言葉が容赦なく突き刺さる。空気が一気にギスギスと張りつめた。
「今そんな話をする場合じゃないだろうが!」
「あなたは助けに行くんですよね?」
「当たり前だろうが?」
「できるんですか? 人を殺せなくなった人に」
イザベラの声が一段と鋭くなった。挑戦的な視線が俺から離れない。
「何で殺すことが前提なんだよ! 殺さなくても何とかなるだろうが!」
「いつまで逃げてるんですか?」
その言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。
イザベラは眼鏡をくいっと押し上げ、冷ややかな目で俺を正面から見据えている。
馬車の中の空気が、重く、息苦しく、嫌な緊張で満ちていた。
キラッとイザベラの眼鏡が光った。その冷たい反射光が、俺の目を直撃する。
俺は何も言えなくなってしまった。
「どのみち、この濃霧が出てたら馬車は動かせませんぜ!」
ハンスが気まずそうに、しかしはっきりと言った。空気を少しでも和らげようとしているのが伝わってくる。
「ならば、シビさんは皆さんの護衛を。わたくしが探しに行くというのはいかがでしょうか?」
エレナの穏やかな声が響いた。
「それこそあり得ないだろうが。僧侶のお前が何言ってるんだよ」
「シビさん。僧侶でも戦う術はありますわ。今までは役割分担で補助と回復を重点にしておりましたけれど……人間ですもの。誰にでも不調はあります」
「私達も多少は戦えますから、エレナさん、そうして――」
「ダメ」
俺はイザベラの言葉を畳みかけるように遮った。
「だめだ! 俺が行く。エレナは二人のフォローをしてくれ。おれが休憩場所を作るから、エレナの結界があれば悪意のある人間は入ってこないはずだ」
その瞬間、空気がさらに重くなった。
「それは賛同できないよ。あんたは今、不完全品なんだよ。それに一人で行かせるなんてリスクが大きすぎるのはわかるよね?」
イザベラの声が一段と冷たく尖る。
「は? うるせえよ。俺に命令できる奴はいねえよ。忘れるなよ。お前らは大公が『連れて行け』と言ってるからく
っついてきてるオマケなんだよ。オマケがグダグダ言うんじゃねえ!」
「シビさん……」
エレナが静かに俺の名を呼んだ。
その顔が、痛いほど悲しげに歪んでいる。
眉を寄せ、唇をきつく結び、瞳には心配と哀しみがはっきり浮かんでいた。
普段の穏やかな微笑みはどこにもなく、ただ俺を見つめる視線が胸に突き刺さる。
ズキン。
心臓が、鋭く痛んだ。まるで古い傷を無理やり抉られるような感覚。
「戦えもできない商人がプロに意見するな。俺がいつお前らの仕事に首を突っ込んだことがある? それは貴様らがプロだから、口を挟まないだけだ!」
言葉が勢いよく飛び出した。
自分でも荒々しい声だと分かっていたが、止まらなかった。
ズキン。
また、胸の奥で何かが軋むような痛みが走った。
エレナの悲しげな表情が、俺の言葉をそのまま跳ね返して胸に突き刺さってくる。
「ならわたくしもご一緒いたしますわ。悪意からの結界を張っておけば、お二方とも大丈夫ですので」
エレナの声は穏やかだったが、決意が固く込められていた。
「だめだ! この濃霧では何かが起きてからじゃ、お互いフォローできないだろうが」
俺は即座に否定した。
しかしその言葉を口にした瞬間、また胸の奥が悲鳴を上げた。
エレナの瞳が一瞬、傷ついたように揺れるのが見えた。
否定するたび、心が軋む。
まるで俺自身が自分を切り刻んでいるような、苦い痛みだった。
「俺は、いつでも馬車が動かせるように準備しておきますぜ」
ハンスが少し心配そうに、しかし頼もしく言った。
「頼んだよ」
俺は短く答え、軽く肩を叩いた。
「シビさん……」
エレナが、泣きそうな顔で俺の名を呼んだ。
その瞳は潤み、長いまつ毛が震えている。
彼女はそっと手を伸ばし、俺の頬に指先を触れた。冷たいほどに優しい感触が、肌に伝わってくる。
「心配しなくてもいいってば。いくら殺せなくても、負けることはないんだしさ」
俺は無理に笑ってみせたが、声が少し掠れた。
「それでも……嫌な予感がしますの」
エレナの声は小さく、しかしはっきりとした不安を帯びていた。
指先が俺の頬から離れず、まるでこのまま離したくないとでもいうように、わずかに力を込めている。
「大丈夫だって」
俺はもう一度、明るく言い聞かせるように言った。
だがエレナの瞳に浮かぶ哀しみは、簡単に晴れる気配がなかった。
俺は深く息を吐き、宿泊施設を作る呪文を静かに唱えた。
淡い光が地面に広がり、簡易的なテント状の結界がゆっくりと形作られていく。
湿った霧の中で、その光だけがぼんやりと頼りなく輝いていた。
その後、俺は盗賊の技能を駆使して気配を完全に殺し、リーニャを連れ去った連中の痕跡を探る準備を始めた。
足音を立てず、呼吸すら整えながら。
背後から、エレナの視線が熱を帯びてずっと俺を追いかけているのを感じていた。
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