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【4部完結】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~  作者:
3章 不条理な山の招待

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84話 誘惑の甘い蜃気楼

 そろそろ標高四、五千メートルに差し掛かったはずだった。

 肺の奥がじりじりと焼けるように痛み、息を吸うたびに熱く腫れた肺胞を針で突かれるような鋭い痛みが走る。

 吐く息は白く濃く凍りつき、すぐに霧のように散って消える。


 薄くなった空気が喉の粘膜を乾いたざらざらの紙やすりで何度も擦り上げていった。

 血の鉄臭が口の中に広がり、微かな血の味が舌に残る。


 胸が急にきつくなって、肺が潰れたみたいに空気が入ってこない。

 無理に吸おうとすると、喉の奥で何かに押し返されるみたいに息が止まる。

 それでいて、心臓がやけに速く打ち始める。

 どくどくという音が、耳の奥で血の響きになって反響していた。


 指先が冷たく痺れ始め、足の感覚が徐々に遠のき、視界の端がわずかにぼやけ始める。

 高山に対する対策をしているのに、高山病みたいな症状が出るのはおかしい。

 山が、俺の体を内側からじわじわと溶かし始めている気がする。


 目の前に存在するのは、雲というより、山肌に腹を押し当ててうずくまる巨大な海獣にも見えてくる。

 白ではない。灰でもない。


 どろりと澱んだ紫が混ざり込み、墨を溶かしたような黒が底で脈打っていた。

 内部で何かがゆっくり混ざってるみたいで、濃いところと薄いところがぐにゃぐにゃうねりながら渦を巻いていた。


 ドロドロした重い液体みたいにずっしり垂れ下がっていて、その重さで空気がぐにゃっと歪む。

 雲の底から黒紫の粘液がぽたぽた滴り落ちて、岩に触れたらジュッと溶かしながら流れていくような……そんな気持ち悪い錯覚が、頭の中に広がる。


 近づくたび、雲の中から低い振動がぶるぶる伝わってきて、骨の芯まで響くような唸りが体を震わせる。

 風なんて吹いてないのに、空気がずっしり重く絡みついてきて、肌を冷たい指が這い回るような感触が、ずっと離れない。

 

 最初に通過した雲を思い出す。あれも異様だった。

 方向感覚がぐちゃぐちゃに狂って、上と下の境目がわからなくなる。

 ふと気を抜いた瞬間、欲情みたいな衝動が胸の奥にねじ込まれてきて、足元には見えないはずのイソギンチャクの触手がぬるぬるまとわりついてくるような……そんな気持ち悪い錯覚が襲ってきた。


 あの湿った、不快な感触。体に残るぬめりみたいなものが、まだ肌に張り付いてる気がする。

 だから、目の前のこれがまともなわけがない。見た目からして完全に異質だ。


 紫を溶かし込んだどす黒い塊。

 光を全部飲み込んで、反射なんて一切させない。

 まるで質量を持った“何か”が、空間を無理やり押し広げて占拠してるみたい。

 こんな雲、これまで一度も見たことない。


「シビさん。この雲も普通では……」


 エレナの声が、自然と小さくなる。

 空気が音を吸い取るみたいに、周りの響きが消えていく。


「普通の雲ではないな。こんな怪しい雲なんて見たことない」


 俺は低く押し殺した声で返していた。

 セリフだけ見れば冗談にも見えるけど……そんな余裕は俺にはなかった。


「ですわね」


 エレナの短い同意。

 でもその言葉の裏に、張り詰めた緊張がびりびり伝わってくる。

 彼女の方を少し見ると、額に汗が一筋流れ落ちていた。

 いつも穏やかな聖女の顔が、わずかに引きつっている。


 入らないといけないのはわかってる。

 でも、いきなり突っ込むのは迂闊すぎる。

 だから、まずは雲をじっくり観察してみた。


 風は吹いている。

 高山特有の鋭い風が、頬を切り裂くように横切っていく。

 冷たくて、痛いのに、その雲はピクリとも動かない。

 流されることも、形を崩すこともない。

 どろりと粘り着く質量感を保ったまま、山肌にべったり貼り付いて停滞している。

 まるでここは俺の領域(テリトリー)だって宣言してるみたいに、どっしり存在していた。


 やはり……ただ見てるだけじゃ埒が明かない。

 一気に飛び込むんじゃなく、少しだけ……試しに入ってみよう。


「……ッ」


 一歩を踏み出そうとした瞬間だった。

 俺は、無意識に足が止まった。

 今までの凍りついた感じではない。

 俺は前に進もうとしてる。頭では進めと命じている。

 なのに、体が従わない。膝がガクガクと笑い始め、足の裏が地面に根を張ったように重い。


 青白く光る剣を握る右手が、視界の中で激しく震えていた。

 指が白くなるほど力を込めているのに、震えが止まらない。

 手のひらに汗がじっとり浮かんで、柄が滑りそうになる。


「ばかな……俺に恐怖を与えるなんて……」


 精神攻撃ではないと理解はしている。

 俺には、精神絶対防御がある。

 そのおかげで頭はクリアで、正気は保てている。

 それなのに、体が震える。


 生存本能が全力で悲鳴を上げてるんだ。

 この先に行くな。この雲に入るな。

 生き延びたいという、生物として最も根源的な衝動が、喉の奥で低く唸りながら、必死で拒絶している。

 体が熱くなり、心臓がドクドクと速く鳴り、耳元で血の音が響き渡る。

 息が浅くなり、肺が締め付けられるような圧迫感が広がる。


 頭の中で……俺の声が聞こえてくる。

 違う俺の声だ、甘く、ねっとりした囁き。


 敵とはなんだ?

 あそこは俺たちを……私を幸せに……快感を与えてくれるよ。

 受け入れろ……アヤ……ううん……いや……うけいれて……ジョー。

 俺の本当の名前が響いた瞬間。

 自分としての自覚が、ビシッと戻ってきた。


 しっかりしろ俺。

 首を何度も強く振って、深呼吸を繰り返す。

 冷たい空気を肺に送り込み、ゆっくり吐き出す。

 それでも胸の奥がざわつき、心拍が不規則に跳ね上がる。

 皮膚の下を、冷たい何かがゆっくり這い回る感覚が、背中から首筋にかけて広がっていく。

 まるで無数の小さな虫が、血管の中を逆流してるみたいだ。



 すると、雲の切れ間が……俺たちを家に招くように、ゆっくりとわずかに開いた。

 俺はエレナの顔を一度見つめた。

 エレナも俺を見て、一回だけゆっくりと頷いてくれた。

 彼女の頬は少し桃色に染まり、息が少し荒い。

 いつも穏やかな聖女の瞳に、初めて見た緊張と……かすかな高揚が混じっていた。

 白い法衣の胸元が、速い呼吸で上下しているのが見えた。

 

 雲の切れ目に沿って、一歩踏み込んでみた。

 少し歩くと、ふっと目の前に蜃気楼みたいに揺らぐ巨大な影が現れた。


 その幻想が空間へ逆さまに映し出した光景は、人類の技術力では到底達成できない。

 奇怪な建築物からなる巨大な都市の姿だった。

 柱はまっすぐ立っていくはずなのに、途中で斜めに傾き、折れ曲がり、空中で無理やり交差している。

 支え合っていない角度なのに、崩れていない建物が見えた。


 他にも、重力なんて無視したような、ありえないバランスで、ただそこに在る。

 円筒形や球体、円錐や四角錐を無理やり組み合わせた塔の上に、五角形の星型を積み上げたような、テーブル状の建物が浮かんでいた。


 建物同士が繋がっているはずの部分が、隙間なく重なり合ったり、逆にぽっかり穴が開いていたりする。

 見ているだけで頭が痛くなる。地面もおかしい。

 平らなはずなのに、見つめ続けると波打つように歪み、奥行きがぐにゃりとねじれる。

 近いはずの壁が急に遠くへ引っ込み、遠いはずの柱が突然目の前に迫ってくる。

 視線を少し動かすだけで、形がずれて配置が変わる。


 まるで建物そのものが、こちらの理解を拒絶しているようだった。

 人間の脳が処理しきれない情報が、強引に押し込まれてくる。

 見ているだけで三半規管が軋むような、耳の奥がきしきしと痛んだ。


 足元が空に、天井が地面に入れ替わるような不安定さが、じわじわと体を襲う。

 内臓がふわりと浮き上がり、胃の奥がひっくり返る感覚が止まらない。

 一歩踏み出せば、足首がねじれて折れそうな錯覚が、骨の髄まで染み込んでくる。


 雲の中を進むと、足元が空に、天井が地面に入れ替わるような不安定さが襲う。

 内臓がふわりと持ち上がり、胃の奥がひっくり返ってきた。


 そして、奥から漂ってくる匂いがした。

 自然の香りじゃない。

 甘い花の蜜のように濃く、とろりと鼻腔に絡みついてくる甘さ。

 吸い込むたびに、舌の奥までじんわり広がって、頭がふわっとする。


 でもその奥底に、腐敗の酸味がしっかり潜んでいる。

 熟れすぎて崩れ落ちた果実の、どろどろした甘酸っぱさ。

 湿った土の重い匂い。

 そして、どこかで死んだ肉が腐り始めたような、甘く生臭い死の香り。

 それらが混ざり合って、俺の本能を直撃してくる。


 風の乙女(シルフ)の護りがあるはずなのに、関係ない。

 加護の薄い膜を突き破って、匂いが肺の奥まで染み込んでくる。

 吸い込むたびに、肺がじわりと熱を持ち、胸の奥がむずむずと疼き始める。

 甘さに誘われる。

 体がもっと吸えと欲しがる。

 でも本能が全力で叫ぶ。

 吸うな。死ぬぞ!と訴えかけていた。


 それは歓迎の香りなんかじゃない。

 捕食者が獲物を誘うための、甘い毒の匂いだった。


 男が絶世の美女の体臭に誘われて骨抜きにされるような、危険極まりない香り。

 一歩歩くごとに、体が反応する。

 女としての身体が疼き始める。

 下腹部が熱く疼いて、太ももが内側から震える。

 胸の先が硬く尖って、服越しに擦れるたび、甘い電流が走る。

 快楽が、じわじわと俺を支配してくる。


 頭の中に、映像が浮かぶ。

 素敵な家庭。

 穏やかな日常。

 充実した人生。

 横には、心から信頼できるパートナーが……。


 よく見るとそれは、エレナが、優しく微笑んでいる。

 白い法衣の裾を揺らして、俺の手を取って。


「もう戦わなくていいんですよ、シビさん。ここで一緒に……」


 俺は、それを受け入れたい。

 エレナと一緒に穏やかに生きたい。

 殺伐とした生き死にの場所で、もう疲れた。

 ここでいいんじゃないか。

 こうしてエレナと一緒に……永遠に。

 俺はその手を取ろうとしていた。


 その瞬間だった。

 俺の右手にはめてある指輪が熱く、体温が勢いよく噴き出しているのを感じた。

 それを見ると、普段は黒みがかった青い光沢をしている指輪が、赤く輝いていた。

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