83話 エレナがいてよかったと改めて思った
洞窟を出てから、空気はさらに異質な重みを増していた。
一歩踏み出すたびに、肺の奥がキュッと引き締まるような、冷たさと熱さが混ざり合った感覚が襲う。
息を吸うと、肺の壁が凍りつきながら同時に焼けるように熱くなり、
吐き出す息が白く凍り、すぐに霧に溶けて消える。
雪原の表面が、微かに波打つように揺れている気がして、足元が不安定に感じられる。
風はほとんどないのに、肌にねっとりとした湿気が張り付き、
服の下で汗が冷たく、背筋をぞわりと這い上がる。
「……はぁ、はぁっ……」
隣を歩くエレナの呼吸は、明らかに平時より浅い。
もちろん数千メートルは登っているから、疲れが出るのは当たり前だが、風の乙女の護りで酸素などは十分に供給されているはずだ。
俺の呼吸呪文と彼女の信仰による加護で、肺に新鮮な空気が流れ込むはずなのに、彼女の胸の上下が速く、浅く、吐息が白く細く漏れるたび、息が途切れ途切れになる。
昨夜の火照りの影響か、彼女の頬にはまだ微かな赤みが残り、聖女としての凛とした佇まいに、どこか危うい色気が混じっていた。
金髪が雪の粒子で白く染まり、風に揺れるたび、汗で湿った髪先が頬に張り付き、紅潮を強調する。
瞳が少しぼんやりと潤み、唇がわずかに開いて、甘く湿った吐息が白く凍り、俺の耳元にかかる。
僧侶服の裂け目から覗く白い肌が、冷気で霜を張りながらも、昨夜の青紫の光の残滓でかすかに脈打っているように見える。
彼女の歩みが少しふらつき、俺の腕に寄りかかる瞬間が増え、その柔らかな体温が俺の腕に染み込んでくる。
まだ火照りが残っているのか、彼女の指先が俺の袖を軽く握り、震えが伝わってくる。
俺だって同じだ。
彼女を支えるたびに、エレナと自分の身体をぐちゃぐちゃにしたいという欲望が襲ってくる。
腕に預ける彼女の柔らかな体重、胸の重み、腰のくびれ、太ももの内側の温かさ……
すべてが、服越しにダイレクトに伝わってきていた。
頭の奥で「ああ、もっと強く抱きしめて、溶け合ってしまえ」と囁く声が響く。
善意で支えてるはずなのに、体が勝手に熱くなり、腕に力がこもりすぎて、彼女の体を押しつぶしそうになる。
理性で抑え込もうとしても、欲望がどろりと絡みつき、「彼女の肌を剥ぎ取り、自分の体に塗りつぶせ」と誘ってくる。
下腹部から何かが来る感覚に溺れそうになりながらも必死に前を向いた。
剣を握る右手の指先が、時折、自分の意識から数ミリずれるような奇妙な感覚に襲われる。
指が自分のものじゃないように、関節が勝手に曲がりそうになる錯覚を覚えていた。
握った柄が、俺の意志とは関係なく微かに震え、関節が不自然に多く曲がり、氷の影のように伸びてしまいそうな錯覚を覚える。
爪が掌に食い込み、痛みでそれを押し戻すが、その痛みさえ、甘くねっとりとした快感に変わりかけて、背筋がぞわりと寒くなる。
この火照りは、ただの熱じゃない。
山が、まだ俺たちの精神に触手を伸ばしてきている。
普通の冒険者だったら欲望に身を捧げ、悲惨な末路が待っていたことだろう。
ある意味俺たち二人でここを調査しに来てよかったと思う。
ほかの奴らがいたら二次災害が起こり、パニックになって被害が尋常じゃなくなっていたはずだ。
エレナの存在が、俺の理性を繋ぎ止め、俺の存在が、エレナの信仰を支えていると思う。
そんな危うい均衡が、今の俺たちを保っていた。
「……大丈夫か、エレナ。無理はするなよ」
「はい……。少し、身体の芯が落ち着かないだけです。シビさんこそ、その腕……」
彼女の視線の先、俺の右腕は、ミスリルソードの魔力に共鳴するように細かく震えていた。
剣の柄を握る指が、微かに痙攣し、関節が勝手に曲がりそうになる。
寒さだけではない。
得体の知れない恐怖が、俺自身をも蝕む感じにも思えた。
腕の筋肉が熱く脈打ち、皮膚の下で何かが蠢くような感覚もあった。
本当は休憩を入れた方がいいのはわかっているのだけど。止まっている暇がなかった。
いつ俺達も抵抗できずに受け入れてしまうかわからなかった。
焦る気持ちを抑えるように進むしかなかった。
一歩ごとに、雪が膝まで沈み、足を取られる。
息が白く凍り、肺が焼けるように痛む。
霧の向こう、標高三千メートルを越えたあたりだった。
岩肌に根を張る肉のような蔦に絡め取られた鎧たちが、ガチガチと音を立てて動き始めていた。
蔦は赤黒く、血管のように脈打ち、鎧の隙間から這い出し、金属を締め上げるように巻き付いている。
鎧の関節が不自然に曲がり、ガチガチ……ガチガチ……と、骨が折れるような音を立てながら立ち上がる。
鎧の中は空っぽのはずなのに、内部から青紫の光が漏れ、目のような光点が無数に瞬いている。
蔦が鎧を操るように引っ張り、ゆっくりと俺たちの方へ向きを変える。
ん? 多分この間の被害者たちの鎧ではないと思えた。
装備が錆びているし、剣は剣なんだが、なんだか種類が違うようにも見えた。
普段の剣よりも武骨で、鉄ではなく銅で作られた剣も見えたからだ。
鎧の表面は赤茶色の錆で覆われ、
プレート部分の継ぎ目が粗く、現代の鍛冶技術とは明らかに違う古い作り。
剣の刃は銅色にくすみ、柄の装飾が魚の鱗や触手のような模様で、壁画に描かれた異形の魚と同じデザイン。
蔦が鎧の隙間から入り込み、金属を腐食させるように赤黒い液体を滴らせ、錆の部分がゆっくりと溶けていくように見える。
蔦が鎧を締め上げる音が、雪原に反響し、ガチガチ……ガチガチ……と、死の足音のように響く。
俺はエレナの腕を強く引き寄せ、後ろに置きながら剣を構えた。
「エレナ、後ろに下がれ」
彼女の震える手が俺の袖を握りしめ、
「シビさん……あれも……私たちのように……?」と掠れた声が、恐怖で震えていた。
「……昨日よりは、実体があるみたいだな」
俺はミスリルソードを正眼に構えた。
昨夜の影とは違い、目の前の鎧たちは蔦という物理的な動力で動いている。
ならば、俺の剣も十分に通用するはずだ。
剣の刃が雪の反射光を捉え、ミスリル鋼が青白く輝く。
左腕でエレナを支え、右腕に全神経を集中させる。
鎧の動きがぎこちなく、関節が多すぎて人間らしくない。
蔦が鎧の隙間から這い出し、金属を締め上げるように脈打っている。
ガラン、と大振りの一撃が雪を跳ね上げる。
刃が空気を切り裂き、風切り音が鋭く響く。
俺はそれを半身でかわし、鎧の繋ぎ目に、蔦が密集している急所を正確に切り裂いた。
剣が蔦に食い込む瞬間、金属と肉の混じった抵抗感が手に伝わる。
バリンッ!
硬い氷が砕けるような音が響き、蔦が力を失って雪に沈む。
砕けた蔦の断面から、赤黒い汁がにじみ出し、雪に染み込んで黒い斑点を作る。
青紫の光点が一瞬強く閃き、すぐに消える。
鎧が動いているわけではない?
蔦が鎧を動かしているのか?
蔦の脈が完全に止まり、鎧がガクンと崩れ落ちる。
内部から漏れていた光が消え、空っぽの殻だけが残る。
雪が鎧の隙間に積もり、静かに白く覆っていく。
「エレナ、浄化の光を唱えてくれ! 倒せなくてもいい。アウリス神の慈悲の光が、奴らの動きを一瞬止めるかもしれない!」
俺の声が雪原に響き、エレナが杖を握りしめる手がわずかに震える。
彼女の金髪が風に揺れ、頬の紅潮がまだ残る中、
瞳に決意の光が宿っていた。
「わかりました……! 聖浄光!」
エレナが掲げた杖から、淡い金色の光の波が広がった。
島の影響で威力は弱いが、アウリス神の慈悲を象徴する優しい輝きが、
蔦は光に触れた瞬間、熱を嫌う蛇のようにビクリと縮み上がった。
光が蔦の赤黒い脈を照らし、一瞬だけ青紫の光が乱反射して、
雪原に淡い虹のような残光を浮かべる。
蔦が収縮し、鎧の動きがピタリと止まる。
蔦の表面がわずかに溶けるように白く泡立ち、
内部の脈打つ光が一瞬弱まる。
その隙を逃さず、俺は踏み込み、裂華で次々と蔦の結節点を断ち切っていった。
剣が蔦に食い込むたび、バキンッという乾いた音が響き、赤黒い汁が飛び散り、雪に黒い染みを作る。
一歩進むたびに、あの不気味な火照りが脈打つ。
下腹部から熱い波が上がり、頭の奥で囁きが再び響くが、剣の重みとエレナの存在が、それを押し返す。
それでも、俺の手には確かな剣の重みがあり、隣には俺を信じて杖を振るうエレナがいる。
「……ふぅ。一丁上がりだ。怪我はないか」
「はい、ありがとうございますわ」
最後の一体を沈めた俺は、額の汗を拭いながら、雲の向こうにそびえる山の頂上の方角を見上げた。
まだ雲に隠れて頂上は見えないが、黒ずんだ雲の底が低く垂れ下がり、その向こうに果てしなく続く岩肌のシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
視線を上げると、首が痛いほど仰け反り、雲の隙間から漏れる淡い光が、俺の瞳を刺すように眩しい。
標高はさらに上がり、空の青さは深く濃く染まり、息を吸うたびに肺が締め付けられるような重みを感じる。
四~五千メートル近くは来ているのにまだまだ先は長そうだった。
雪原が緩やかに傾き始め、足元が滑りやすく、一歩ごとに膝まで沈む雪が重く体を引っ張る。
風が少しずつ強くなり、雪の粒子が顔に当たってチクチクと刺す。
息を吸うたび、肺が凍りつきながらも、どこか熱く焼けるような感覚が残る。
「……行きましょう、シビさん。この山で、何が待っているのか……わたくしたちの目で確かめるために」
エレナが俺の腕にそっと手を添える。
その暖かさは俺自身の本能的な恐怖をいくばくか抑えてくれた。
彼女の指先が革ジャンの袖を軽く握り、金髪が風に揺れて俺の肩に触れる。
エレナの体温が、布越しにじんわりと伝わり、昨夜の火照りの残り香が、かすかに混じっている気がする。
彼女の瞳が、決意を宿しながらも、わずかに潤んで俺を見上げ、
頬の紅潮がまだ薄く残っていた。
その視線に、慈愛と覚悟が混じり、俺の胸を締め付ける。
彼女の吐息が白く凍り、俺の首筋にかかる。
温かく湿った息が、冷たい空気の中で唯一の現実味を与えてくれる。
俺たちは、いまだ見えない頂を目指し、再び重い雪を蹴立てて歩き出した。
雪が膝を埋め、足を取られるたび、体が傾き、エレナの腕を支えながら進む。
後ろを振り返ると、通ってきた道はすべて真っ白に染まっていた。
足跡すらすぐに雪に埋もれ、俺たちの存在がこの山に飲み込まれていくように見える。
それは、俺たちも早く真っ白になれと言っているようにも思えた。
影のように溶け込み、個を失って永遠の住人になることを、山が静かに促している気がして、背筋がぞわりと寒くなる。
エレナがぎゅっと俺の革ジャンを掴んでくれたおかげで、その考えは一瞬のうちに飛んでくれた。
彼女の指先が布地に食い込み、震えながらも強く握りしめている。その力強さが、俺の腕に伝わり、安心する。
まだ俺たちはここにいるって現実を叩き込んでくれる。
金髪が風に揺れて俺の肩に触れ、
彼女の体温が布越しにじんわりと染み込んでくる。
昨夜の火照りの残り香が、かすかに混じり、甘く危険な誘惑を思い出させる。
今はそれさえも、エレナの存在が抑え込んでくれる。
俺は彼女の指を軽く握り返してみた。
「大丈夫だ。俺がいる」と小さく呟いた。
エレナは頷き、俺の腕に寄りかかるように体を預け、二人で雪を蹴りながら、前へ進んだ。
この山の頂上に、何が待っているのか。俺たちは、まだ知らない。
前方に広がる黒ずんだ雲が、ゆっくりと俺たちを飲み込もうとしているように見える。
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