第六十三夜:忘却の魔術
馬車を止めて、外に出た。
冷たい空気が肌を撫でる。
しばらく揺られ続けていたせいか、地面の感触が不思議と頼もしく感じられる。
私と、フォスター。
それから、御者の男性――彼の名前はクラン殿。
「さっきの話、聞こえちゃってましたよね……?」
フォスターが、低く問いかけた。
問いではあるが、ほとんど確認に近い声色だった。
クラン殿は、少し躊躇う素振りを見せた後、頷いた。
「……はい、聞こえていました……」
やはりな。
馬車の端と端で交わされた会話だった。
いくら抑えたとはいえ、あの距離では、漏れ聞こえて当然だ。
フォスターが言葉を続けようとしたその時――
「この事は、ナイショでお願いしま……」
私は、そっと彼の言葉を制した。
「――フォスター」
振り返ると、フォスターが私を見ていた。
無言で、次を促している。
「記憶というのは言葉だけでは、人を繋ぎ止めることはできない。
口を閉ざすというのは、彼に重責を負わせることになる」
人は、重い出来事を一人で抱えきれないものだ。
プルワのような例外もいるが――
混乱した状況であれば、今回のように無意識に口を滑らせることもある。
「なら、どうすんだよ。コーネリアのばぁちゃんに伝えてもらうか?」
フォスターが言った。
それも、一つの選択肢ではある。
だが――
「いや。私の魔術で、この数時間の記憶を消す」
「えっ!?」
同時に、二人の驚きが重なった。
フォスターすら、少し目を見開いている。
だが、私にとっては当然の選択だった。
「クラン殿。これは、貴方のためを思ってのことだと理解してほしい。
この魔術は万能ではないが、痛みも無ければ、代償を貴方に負わせることもない」
――忘却の魔術。
一通りの魔術を覚えておいて、正解だった。
クラン殿が、戸惑いを隠せないまま、口を開く。
「あ、あの……それは、どういう感じになるので……?」
「呪文が終われば、貴方は気づかぬうちに、ここまで到着していた――
そういう感覚になる」
私は簡潔に説明した。
「出発から今までの記憶が、ふわりと抜け落ちる。
……あまりに忙しかったせいで、時間が飛んでしまった。そんな風に感じるだろう」
クラン殿は、まだ不安げだったが――
「大丈夫なのか?何かのきっかけで、思い出したりとかよ」
フォスターの低い声。
まっすぐな問いかけ。
――正に、その通りだった。
「記憶に関連するキーワードを聞いてしまえば、思い出す可能性がある。
だが――“魔族”など、そうそう聞く単語ではないだろう?」
私は静かに言った。
フォスターも、クラン殿も、黙って頷いた。
それでも、リスクがないわけではない。
「しかし、クラン殿――」
私は改めて彼に向き直る。
「もし記憶が蘇った場合は――今のこの話も、思い出すことになる」
クラン殿の喉が、かすかに鳴った。
唾を飲み込む音が、静かな空気に微かに響いた。
「その時は――コーネリア殿、あるいはアイシス殿、ルシェル殿。
それか、ギルド長のレンハルト殿でもいい。その方たちの誰かに、打ち明けてほしい」
死の大行進という死線を共にくぐった仲間たち。
彼らなら、決して無碍には扱わないはずだ。
「そうだな。確かにそれが一番安心かも知れねぇ」
フォスターも、静かに納得してくれた。
私は息を整え、クラン殿に向き直る。
「それでは、魔術の準備をする。
――よろしいか、クラン殿?」
クラン殿は、まるで祈るように両手を胸の前で組みながら――
顔は蒼白だったが、必死に頷いた。
「は、はいぃ!も、もうどうにでもしてくださいぃ!」
心情は痛いほど理解できた。
国家機密に触れた一般市民。
その重さは、容易に背負えるものではない。
私は、そっと手を伸ばした。
クラン殿の両耳の横に、静かに手を添える。
掌に、微かな力が集まる感覚――
「それでは、失礼する……」
ミナが、静かに目を閉じた。
ゆっくりと、詠唱に入る。
歌うように――音を引っ張るように――
低く、滑らかに。
「Oblivio invoco, memoriam solve」
(オブリヴィオ インヴォーコ メモリアム ソルヴェ)
区切りなく、音を繋いで流す。
まるで静かな旋律みたいに。
「Oblivio invoco, memoriam solve」
(オブリヴィオ インヴォーコ メモリアム ソルヴェ)
少しだけ声を張り気味に。
その手から、ぼんやりと紫色の光がにじみ出した。
淡い闇が、ほんのわずかに指先を包み込む。
「Oblivio! invoco! memoriam! solve!」
(オブリヴィオ!インヴォーコ!メモリアム!ソルヴェ!)
三度目。
今度は、はっきりと強く。
光が弾けるように広がり――
クランさんが、ふらりと揺れて、ゆっくりと地面に倒れ込んだ。
「お、おい、大丈夫なのか?」
思わず声が出る。
ミナが、静かに頷いた。
「ああ、大丈夫だ。 ――しかし、座らせておくべきだったな……」
そりゃそうだろ。
でもその冷静さに、少しだけ安心する。
「フォスター、ここからは口を合わせろ」
口を合わせろ?
……なんだよ、目覚めのキスでもしろってか?
――そんな間抜けなことを考えていたら、
クランさんが、もぞもぞと身を起こし始めた。
「うーん……あれ、ここは……?」
ぼんやりとした目。
完全に、記憶が飛んでいるらしい。
ミナが、さらりと言った。
「大丈夫ですか、御者殿? 足を滑らせてしまったようだが」
……え? 何言ってんだ?
ミナを見ると、一瞬、すごいジト目がこっちに向けられた。
――あ、察し。
そういうことか。
「馬車が大きく揺れたので車体を見に行く、と言ったあと、凄い音が聞こえましたよ。
恐らく、足を滑らせたんでしょう」
ミナが、さらっと辻褄合わせを続ける。
――そういう流れか。了解だ。
「車体見ましたけど、特に問題は無さそうだ。馬車に戻りましょうぜ」
俺も適当に合わせると、クランさんは少し不思議そうな顔をしたが、
すぐに「あ、はい。ありがとうございます。天使様」と頭を下げて、馬車へ戻って行った。
……ふう。なんとかなったか。
ミナが近づいてきた。
顔を覗き込まれる。
「途中まで気付いてなかっただろう?」
ジト目。
わかりやすく不満そうだ。
「イキナリ過ぎんだよ。こっちも頭回すの必死なんだぞ」
俺も小声で応戦する。
ミナはふっと息をついた。
疲れたような、でもどこか満足げな顔。
「とりあえず戻ろう。魔術は成功した。
……残りはプルワのことも考えて、話は一度中断しようと伝えてくれ」
そう言い残して、ミナはスタスタと馬車に戻っていった。
全く――
可愛げないやつー。
でもまあ、それがミナってもんだよなぁ。
今後はしばらく火、木曜日の11時更新となります。
元のペースに戻せそうになり次第、お知らせいたします。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト企画進行中(牛歩)
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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