第二十二夜:黒涙湖の脅威
すみません!
昨日間違えて二十一夜アップしてしまいました!
見逃してる方は、そちらからご覧ください!
その夜、ジークは夢を見た。
いや……本当に夢なのか?
心の奥底から浮かび上がる、何か別のものなのかもしれない。
ぽたり。
水の滴が、どこかで落ちた。
重力に引かれるように身体が沈んでいく感覚。
ふわり、ふわりと、深い水底へ引きずり込まれていくようだった。
目を開けると、色彩が滲んだ世界にいた。
淡い色鉛筆で描かれたような、優しくも不確かな風景。
僕は、そこに座っていた。
低いテーブルを囲む形で、何人かの影がいる。柔らかい声が響いて、誰かが笑う。
……嫌な感じはしない。むしろ、胸の奥が温かくなるような心地よさだ。
けれど、影たちの顔はぼやけていて見えない。
表情どころか輪郭すら曖昧で、目を凝らそうとするほど霞んでいく。
「──んだ、ね?」
誰かが何かを言った。声は優しい。懐かしい。けれど意味は掴めない。
視線を落とすと、そこにいる“僕”が笑っていた。
自分なのに、距離を感じる。
遠巻きに見える少年の笑顔は、この上なく穏やかで、幸せそうで。
喉が詰まりそうになった。
手を伸ばしかける。触れられそうで──でも、遠い。
……誰だ、君は。
どうして、その温もりが、胸を締めつけるんだ。
ふと、テーブルの上に置かれた手が僕を呼んでいるように見えた。
でも、その瞬間。
ぽたり。
また一滴、何かが落ちて、世界が溶けていった。
――……目が覚めた。
重い瞼を開けると、暗がりの中で天井が見えた。
喉が渇いて、胸がざわつく。
頬を伝うものがあって、指で触れると、それが涙だと気づいた。
「……なんで」
思わず声が漏れる。
夢? 思い出せない。
ただ、胸の奥が空っぽになるような喪失感だけが残っていた。
「きゅ〜っ……?」
心配そうな声に顔を向けると、フェリオが丸まった耳をぴくりと動かしてこちらを見ていた。
「大丈夫……平気、ただの夢だよ」
そう言っても、フェリオはじっとこちらを見たままだ。
次の瞬間、フェリオがふわりと胸元に飛び込んできた。
小さな体がぎゅっとしがみつく。あたたかい。心地いい。
けれど。
夢の中で感じた温もりとは、何かが違った。
喉元に引っかかった何かが、消えないまま胸に残り続けていた。
翌朝、フォスターとミルベーナはワルツハイムの命の楯へ向かっていた。
「ったく、何でオレがギルド組なんだよ……ジークに任せときゃいいだろ」
腕を組みながら不満げに歩くフォスターに、ミルベーナは横目でちらりと見る。
「人数が多いと無駄に目立つのよ。ここはそれなりに大きな町だし、ちゃんと見てくれる方に町の雰囲気を探って欲しかったの」
遠回しにジークの方がしっかりしていると言っているようなものだった。
「わかってるけどよ……オレ、昨日の蹴りのこと、まだ根に持ってっからな」
「……ああ、そのことね」
ミルベーナはほんの少し視線を落とし、わずかに肩をすくめた。
「……悪かったわよ。あのときは咄嗟に黙らせるしかなくて……
でも飛行魔術はなるべく隠しておきたかったの。説明が遅れたのは私のミスよ」
「そりゃそうだろ!おかげで変な声出たじゃねぇか!
っつーか、あんな勢いで蹴るやつがあるか!」
「……普通なら、あの程度で騒ぐのは子供だけど」
「うっせぇ!それとこれとは別だろ!」
「はいはい」
ミルベーナは流すように言いながらも、どこか笑いをこらえているようだった。
二人の軽い口論が続く中、目の前に堂々たる建物が見えてきた。
「お、あれか?」
「ええ。命の楯、ワルツハイム支部。大きいわね……予想以上だわ」
近づくと、その規模の違いがよりはっきりとわかる。
これまで訪れてきたギルドは酒場のような雑多な雰囲気だったが、ここはまるで詰所のような堅い佇まいをしていた。外壁は灰色の石で整えられ、入口には堂々とした木製の扉。その上には「命の楯」の紋章が彫られた鉄の看板が掲げられている。
「なんつーか……ギルドって感じがしねぇな」
フォスターが眉をひそめる。
「町の規模によっては、軍の代わりみたいな役割も担うからでしょうね。
こうして執務室のような建物になるのも珍しくないわよ」
「ふーん……酒が置いてないギルドなんて初めてだぜ」
「……そこ?」
昨日のからみ酒が一瞬蘇るミルベーナ。
扉を押して中に入ると、ひんやりとした空気が出迎えた。
広いホールの奥にはいくつかの窓口が並び、書類を抱えた人々がせわしなく行き来している。
冒険者に見える人間もいれば、見るからに事務官といった雰囲気の者も多い。
全体的に秩序が保たれていて、ここがギルドであることを忘れそうになるほどだった。
「……なんか本当にここギルドかよ?」
「ここまでくると、むしろ新鮮ね」
ちらほらと視線を向けられるが、フォスターとミルベーナは特に気にせず受付へ向かう。
「さて、目的は情報収集と……この間のネクロス関連の情報も聞いておきたいわね」
「おう、色々聞けると嬉しいんだけどな。んで、昼には広場集合だっけか?」
「ええ。リージュたちが町を見て回っている頃だわ。長引かないといいけど……」
しっかりとした受付カウンターが並び、そのうちの一つに落ち着いた雰囲気の女性が立っていた。ミルベーナは無駄のない動きで歩み寄ると、上着の胸元から白銀のタグを取り出し、そっと差し出す。
天使用のタグだと気づいた女性は一瞬目を見開き驚いたものの、すぐに笑顔を取り戻し「少々お待ちくださいませ」と一礼して奥へと消える。
「……やっぱり目立つんじゃねえか?」
隣で腕を組んでいたフォスターがぼやく。
「天使ってだけで面倒なことになるのはわかってるけど、仕方ないわ。
正式な用があるんだから」
ミルベーナは肩をすくめた。
数分後、戻ってきた受付の女性は「ご案内いたします」と微笑み、
二人をカウンター奥の扉へと導いた。
足を踏み入れた先は、ギルドの喧騒が嘘のように静かな廊下。
やがて案内された個室の扉が開かれる。
中には質素ながらも整えられた部屋があり、
簡素な長机と椅子が並ぶ中で、一人の壮年の男性が立っていた。
男性は浅黒い毛並みを持つ犬獣人――恐らくジークと同じ種族だろう。
きりりとした目元に深いシワが刻まれ、豊かな顎髭が威厳を漂わせている。
「遠路ご苦労さまです。私はこのワルツハイム詰所のギルド長、セワスと申します」
低くも落ち着いた声で挨拶すると、胸元の手を握って軽く頭を下げた。
恐らく、天使用のタグがこの対応を引き出しているのだろう。
フォスターは内心で (やっぱり扱いが違ぇな……)とつぶやき、ミルベーナは必要最低限の礼儀としてうなずいた。
セワスは椅子を勧めながら、真剣な目を二人に向ける。
「それで、天使様が我がギルドにお越しくださったのは……どのようなご用件でしょうか?」
セワスが深く腰掛けると、ミルベーナは無駄のない動きで背筋を正し、
前置きなく口を開いた。
「私たちはファルムス帝国を目指しており、
このワルツハイムにはその途上で一時的に滞在しています」
率直な説明だ。目を細めて頷くセワスに、ミルベーナは地図を取り出し指で道筋を示す。
「そこで、まずお聞きしたいのはこの辺りのネクロス被害についてです。道中、野良の骸は数多く見かけましたが、被害状況はどの程度でしょうか?」
「ふむ、そうですね」
セワスは指先で顎髭を撫で、重々しく言葉を探すように声を潜めた。
「確かにネクロス自体は多い。しかし意外と思われるかも知れませんが、
町の住民で犠牲になる者は月に一人出るか出ないかといったところです。
……ですが」
「……旅人は別、ということでしょうか?」
先に口を開いたのはフォスターだった。
低く落ち着いた声音でありながら、敬意を失わないその口調に、
ミルベーナは思わず彼を二度見した。
――え、コイツ、こんな喋り方できたの? そんな表情を隠すのに必死だ。
セワスは微かに眉を上げたが、好意的な笑みを浮かべる。
「察しが早くて助かります。
ええ、旅人や行商人の被害までは正確な数を把握しておりません。
この辺りは黒涙湖が近いこともあり、無防備な者はそう長く持ちません。
警戒していたとしても、奴らは時折異常な動きを見せることがありますので……」
「異常な動き?」
ミルベーナが問い返すと、セワスは軽く頷いた。
「それはもしや奇声をあげるネクロスではありませんか?」
フォスターの落ち着き払った敬意を忘れない言葉遣い。
いつもの彼と違う一面にミルベーナは内心動揺している。
「こちらへ来る道中、奇声が聞こえその方向に駆けつけたのですが、
別の旅人がその奇声を発するネクロスと遭遇いたしましたもので……」
「……既に遭遇なされておりましたか。私どもが確認できているネクロスの中に、近年この地方で確認されている変異体が二種おります」
「変異体?」
フォスターが眉を寄せる。
「一つ目は、“ウィーパー”と呼ばれる個体です。
出現時、甲高く耳障りな叫び声を上げ、周囲のネクロスを引き寄せる特性を持ちます。被害者の証言では、あの声を聞いた瞬間、理屈では説明できない恐怖に襲われたと言われています。実際、恐慌状態になり身を隠すことすらできなくなる例が少なくありません」
「……恐怖を植えつける声、か」
ミルベーナは考え込み、フォスターも頷く。
道中で遭遇したあの奇声の主がそうだったのだろう。
「もう一つは、“クリムゾン”と呼ばれる変異体です。
特徴は黒い血液を流していること。そして……生者への反応が非常に敏感です。通常のネクロスは視覚や聴覚に頼ることが多いのですが、クリムゾンは距離や障害物に関わらず、人間の存在を嗅ぎつけてくる傾向があります」
「厄介だな……」
フォスターが低く唸った。
「ええ。さらに恐ろしいのは、これら二種の出現地点がすべて黒涙湖方面に限られていることです。突然変異とされてはいますが……理由はわかっておりません」
室内に重苦しい沈黙が落ちた。
黒涙湖――世界の中心であり、瘴気と死の源泉。
ミルベーナは無意識に顎に指を当て、視線を落とす。
「町自体の守りはかなり堅固に見えましたが……
それでも旅人の犠牲が絶えないんじゃ、油断はできないわね」
「おっしゃる通りです。この町は周囲を厚い壁で囲い、
監視塔も設置しておりますが、黒涙湖の脅威はそれを凌駕することがありますので」
セワスの声に、ミルベーナとフォスターは互いに短く視線を交わした。
――この先の道行きが生易しいものではないことを、改めて突きつけられた瞬間だった。
「……それと、もう一つお伝えしておきたいことがございます」
セワスは声の調子を落とし、背筋を正した。
年季の入った手が机に置かれ、その指先がわずかに震えているように見える。
「この地方には……“大行進”があります。
いや、正式には“死の大行進”と呼ばれております」
「大行進?」
フォスターがわずかに眉を寄せる。聞き慣れない単語だ。
だが、その響きは妙に胸の奥にざらつくものを感じさせた。
セワスは静かに頷き、目線を落とす。
「黒涙湖から押し寄せるネクロスやナグリスたちが、何千、場合によっては万を超える数で一斉にこちらへ向かってくる現象です」
その言葉に、室内の空気が一段と重くなる。
「万を…超える……?」
思わず漏れたフォスターの声に、ミルベーナも表情を曇らせる。
数が多いとは思っていたが、それは常軌を逸していた。
「ここ百年で記録が残っているだけでも、四度発生しております。
九十七年前、八十二年前、四十年前、そして十二年前。ご覧の通り、不定期です。
決まった周期はなく、油断すればいきなり始まることもある」
ミルベーナはその記録を目で追いながら、唇を引き結んだ。
「……直近でも十二年前、ですか」
「ええ。死の大行進が始まるとき、辺りの空気が変わります。
冷たく、重く、ただそれだけで呼吸が苦しくなる。
ここで生まれ育った私ですら、あの気配は体に染みついております」
セワスの言葉には、まるで過去の恐怖をそのまま引きずっているような生々しさがあった。フォスターは拳を握りしめる。そんな群れにこの先で直面する可能性があるのか……。
「クラウゼンブルクと共に監視は続けていますが、発生した場合は早馬を走らせ、町全体で防衛体制を敷きます。その際、ファルムス帝国にも援軍を要請しますが……それでも被害が出ることは避けられません」
「……天使は?」
ミルベーナが静かに尋ねた。
セワスは頷いた。
「はい。幸い、これまでの死の大行進では、いずれも天使の方々に助力いただき、町が全滅するには至っておりません。ただ……それでも多くの犠牲が出た年もあります」
フォスターは目を伏せた。防げたとしても、そこには生々しい死がある。
それが、この地方で生きるということなのか。
「……この町の者たちは、幼い頃からそれを知っております。
逃げ出す者もいますが、それでもここに残る者は皆、
故郷を守りたいという意思がある。私もその一人です」
言葉に偽りはない。セワスの目は、どこまでもまっすぐだった。
フォスターはゆっくりと息をついた。
「……その覚悟、感服いたします……」
ミルベーナもまた頷きながら、机に置かれた記録をそっと指でなぞる。
「マーチング……このような事、起こらないことを願うばかりです……」
だが、胸の奥で冷たい予感が蠢いていた。
――願いだけでは、済まないかもしれない。
「……長くお引き止めしてしまい、申し訳ありませんでした。
旅の途中で、このような重苦しい話をお聞かせしてしまい……」
深々と頭を下げたセワスの声は、真摯な謝意に満ちていた。
その様子に、フォスターも椅子から立ち上がり、迷いなく頭を下げ返す。
「いえ、貴重なお話でした。わたしたちも無知なまま歩いてたら、
大変な事態を引き起こしかねない内容でしたので。感謝しております」
礼儀正しく、落ち着いた声。いつもの荒っぽさは微塵もない。
ミルベーナもそれに倣って頭を下げながら、
どこか不思議そうにフォスターを一瞥した。まるで別人だ。
話を締めくくろうとしたとき、ふとミルベーナが思い出したように問いかけた。
「ところで……この町には、常駐の天使がいると伺ったのですが」
「ああ、それについてもお伝えしておかねばなりませんでした」
セワスは小さく頷き、再び真剣な面持ちに戻る。
「この町には『コーネリア』殿という天使様が常駐しておられます。
四十年前、あの死の大行進からこの地を守ってくださっている方です。
普段は町の南側で占い所を開いておられ、困りごとがあればいつでも耳を傾けてくださるでしょう。もしお会いになられる場合は、町の者に尋ねていただければすぐにわかるはずです」
「助かります。後ほど伺わせていただきます」
丁寧に礼を述べるミルベーナ。その隣でフォスターも深く一礼をした。
ギルドを出て外の光を浴びた瞬間、張り詰めていた空気が緩む。
「ふぅ……やっぱ緊張すんなー、こういうのは」
フォスターが肩を回しつつ、苦笑混じりに言う。
私はじっと彼を見つめた。
「……さっきの貴方、ずいぶんと礼儀正しかったじゃない。正直驚いたわ」
「ん? ああ……」
フォスターはポケットに手を突っ込み、曖昧に肩をすくめた。
「一応、オレも天使のお付きとして見られる立場だろ?
あんたに恥かかせるのも嫌だったし、できる限りやっただけさ」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸に何かが引っかかった。
――何かがおかしい。
『できる限りやっただけ』?
だが、あの所作は見よう見まねでできるものではなかった。
あの自然さ、流れるような動き、適度な抑揚を含んだ敬語……
習得には時間を要するはずだ。
ただそれ以上に。
胸の奥で杭を打たれたような、切なさと苦しみが同時に込み上げる。
なぜだ?
なぜこの男の言葉に、私はこんなにも引き裂かれるような痛みを覚える?
「……?」
フォスターが不思議そうに振り返る。
「どうかしたか?」
「……いえ、なんでもないわ」
何も掴みきれない感覚を、私は喉奥で飲み下した。
そのまま私たちは歩き出す。中央広場で待つリージュたちの元へと。
けれどこの胸に残った違和感は何?
唐突な私自身に襲った疑念は、そう簡単には消えなかった。
今後は日、火、木曜日の11時更新となります。
こちらも試験投稿になりますので、宜しくお願いします。
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