第百十五夜:もう目の前に
話が一段落し、重たい沈黙が空気を支配した。
だが、ロゼリアの表情にはまだ影を落とすものが残っていた。
アストン神父の名が、これほど彼女の心に響くとは、ジークたちにも予想できなかった。
「ロゼリアさん……ごめんなさい。
僕らも、ユグドラシル様やサリエル様との思いもしない出会いがあって……話すのが遅れてしまって……」
ジークの声には、遠慮と後悔が入り混じっていた。
彼女の胸中に波紋を落としたのは事実であり、それをどう償えるかという想いもまた、偽りではなかった。
ロゼリアは、ゆっくりとジークへ目を向ける。
だがその目には、いつもの強い光は無く、どこか沈んだ色が浮かんでいた。
「……いや。我も、このところ忙しさにかまけ、カガリビ村へ足を運ぶことができなかった。我の落ち度だ」
それは明確な自責だった。
口調は静かだが、言葉の一つ一つが、どこか自分を責めているように響いた。
その言葉に応えるように、ミルベーナが淡々と問う。
「忙しさ……とは。先ほど私たちが目撃した“四足歩行のネクロス”のことか?」
ロゼリアの眉がわずかに寄る。
その神妙な面持ちが、言葉の代わりに答えを示していた。
「ああ……ここ数ヶ月ほど前からだろうか。今日の二匹は、まだ少ない方だ」
部屋の空気が、再びぴんと張り詰める。
それは、危機の深刻さを語る何よりの証だった。
フォスターが腕を組み、渋い表情で吐き出す。
「あんな動きのネクロス……今まで見たことねぇ。
ナグリスでもなかったのによぅ、まるで動物っていうか……いや、獣そのものだった」
記憶をなぞるように、彼は戦闘中の動きを反芻する。
“天使の力”がすんでのところで発動しなければ、あの場にいた誰かが傷ついていたかもしれない。
否――フォスターたちがいなければ、街全体に押し切られていた可能性もある。
その考えが、じわりと背筋を冷やした。
「……今はまだ詳しいことは分かっていない。
本国も調査を進めてはいるが、現場に出られる天使が不足しているのだ」
ロゼリアの声は、どこか憔悴すら感じさせた。
「通常の兵士たちも調査に出ているそうだが……あの“姿”で戻って来る者も、少なくないらしい」
彼女の話しぶりは、いつもの芝居がかった言い回しとは全く異なる。
不自然なまでに整った言葉。
装飾も冗談も無く、ただ“現実”だけを切り取って差し出すような。
それは――彼女自身も、心に余裕を失っている証左だった。
静かに、しかし確実に。
この街に、“何か”が迫りつつある。
天使でさえ冷静さを欠くほどの、見えない脅威が。
その影に、皆の視線が自然と落ちていった。
「アレは、どのくらいの頻度でやってくるんだ?」
ミルベーナが問いかけた声には、状況の深刻さを測ろうとする静かな緊張があった。
ロゼリアは少し視線を上げ、短く答えた。
「数日に何匹か……といったところだ。
だが、あの壁を越えられるほどの跳躍力を持つ個体は、まだ稀だ」
一息置き、彼女は壁の構造について言及する。
「そのため、外壁の上部には“ねずみ返し”のような逆刃を簡易的に取り付けてある。
大半のネクロスはそこで傷を負い、兵士や我が出向いて仕留める……最近は、それが常となっている」
ジークはその“簡易的”という言葉に、小さく目を細めた。
急ごしらえ。
リージュと交わした会話を思い出す。
恐らく、外壁の防備体制自体が仮設に近いものなのだろう。
まともに壁上で運用できる兵力が、既に足りていないのかもしれない。
外壁に行こうものなら、更にネクロスの危険も増す。
静かに息を吐き、ミルベーナがはっきりと言葉を発した。
「……明日は、本国に行こう」
その声には、決意が宿っていた。
「天使が不足していて調査が進まないのであれば、私たちが赴くしかあるまい」
「……そうだね。ここまでも、酷い光景を何度も見てきた。
でも、これほど大きな街まで被害に遭ってるなら……急がないと」
ジークがそれに応じる。
長い旅路を経てきた中で、目にしてきたものすべてが、彼らの背中を押していた。
そのやり取りを見ていたロゼリアが、ゆっくりと顔を上げた。
「其方たち……」
その声は、これまでにないほど素直だった。
「でも……本国に行くとして、どこの誰に相談すればいいのかな?」
疑問を口にしたのはリージュだった。
帝国の中枢に近づくという現実に、不安が滲む。
「ロゼリア、どうすればいい?」
フォスターが尋ねた。
ロゼリアはわずかに頷き、静かに答える。
「……ありがとう。
まずは本国中央、皇帝の居城を訪ねて欲しい。明日の出立までに、我が書簡を用意しよう」
その言葉と共に、彼女はようやく安堵の表情を浮かべた。
短いが、確かな信頼の証だった。
「皇帝か……また堅苦しくなりそうだな……」
フォスターがぼそりと呟く。
だが、その呟きに軽く応じたのは、フォルスティンだった。
「そうでもないかもしれませんよ」
紅茶を口に運びながら、意味深な微笑を浮かべる。
「皇帝はここ数年で代替わりしました。
今の方はエンゴウ・ダルク・ファルムス。前帝のご子息で、かなりお若いとか」
ロゼリアが驚いたように目を見開く。
「……よく知っているな?
代替わりは三年前だ。当時は齢二十四にして帝位を継ぎ、今では“炎帝”の名で通っている御仁だ」
「お前、なんでそんなこと知ってんだよ……」
フォスターが訝しむように尋ねる。
だが、フォルスティンは相変わらず淡々とした口調で答える。
「世情を掴むのは、世を渡る者の常識ですよ。それに、少々ツテもありますので」
カップに新たな紅茶を注ぎながら、その表情にはやはり何も映っていなかった。
その裏に何を知っているのか――誰にも分からない。
「決まりだな。本国に着いたら、謁見を求めよう」
ミルベーナがそう締めくくる。
「私たちもしばらくはファルムス帝国に常駐するよう、大天使サリエルより仰せ使っている。行動は共にしよう」
その言葉に、全員が改めて気を引き締めた。
いよいよだ。
長かった旅路の一つの節目。
明日、彼らはファルムス帝国本国へと向かう。
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どうぞご覧ください。
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