第百五夜:思惑と本音
――同時刻
フォルスティンが眠っているはずの馬車の中では、幻術で作られた“偽の彼”が静かに横たわっていた。
その本体はすでにそこにはいない。
泉から数キロ離れた岩陰――月明かりすら届きにくい、
人目を避けた場所で、彼はそっと肩の力を抜いた。
「いやいや……まさかユグドラシル様まで降臨されるとは」
声は穏やかだが、細い目はいつも以上に線のように細まり、額に薄く汗がにじむ。
希代の幻術師たる彼でも、さすがに“世界の中心”に比肩する存在の前では気配を完全に消せた自信はない。
「気取られる前に退避できましたが……いやはや、寿命が縮まりますねぇ」
胸を軽く押さえ、深呼吸する。
だがその直後、その目が冷静な光を取り戻す。
「問題は……“新たな理”と仰ったことです」
理とは、世界を動かす根源的ルール。
魔力の流れ、大地の法則、生と死の循環……その全ては理に属する。
その理が“新たに生まれようとしている”。
しかも、世界の母たるユグドラシル様自身が“把握していない”と言った。
――異常事態……ですねぇ。
「これは……主に報せねばなりません」
フォルスティンは顎に手を当てたまま、細い目をさらに細めた。
その表情は、旅を共にする温和な御者ではない。
まるで何十年も世界を俯瞰してきた学者か、あるいは――もっと別の何かだ。
指を軽く鳴らす。
ぱちん。
空気を震わせ、黒と白の羽をもつ小さなカラスがぱっと現れた。
くりっとした目は、フォルスティンそっくりの“糸目”。
だが小さな胸には、使い魔の証である蒼の宝玉がきらりと揺れている。
「呼ンダ?」
と、異様に可愛い声で鳴いた。
「ええ。伝令をお願いしますよ、シロクロウくん」
フォルスティンが手を差し出すと、カラスはちょこんと乗り、
「リョーカイ!」
と元気よく返事し、夜空へと飛び立った。
彼は、飛び去る小さな影を静かに見送る。
「ふふ……新たな理。果たして混沌か、調和か」
旅のお供を思わせる柔らかい……いや、歪な笑顔を浮かべながら――
その瞳の奥だけが、異質に冷たい光を灯す。
「どちらに転んでも……楽しみですねぇ」
その呟きと共に、フォルスティンの姿は闇に溶けるように掻き消えた。
世界の中心――
世界樹ユグドラシルの根が幾重にも張り巡らされた、静謐なる聖域。
そこには昼夜の境界も、時間の流れさえ曖昧な空気が漂っていた。
女神ユグドラシルと大天使サリエルは、その深奥をゆっくりと歩いていた。
無数の葉擦れの音が、彼女たちの歩みに合わせるように淡く鳴る。
「主よ」
サリエルは自然に跪くような姿勢で、恭しく頭を垂れた。
その所作には、一点の迷いもない。
「サリエル。貴女は本当に真面目ね」
女神の静かな微笑み。
それは皮肉ではなく、本心からの言葉だった。
サリエルは返す言葉を持たなかった。
真面目であることは、美徳であると同時に――彼女が“作られた存在”である証でもあった。
敬愛と忠誠は、その身体、心、芯そのものに刻まれたものなのだ。
「先程の邂逅……いくつか、相違点がございました」
サリエルは迷いつつも、疑問を口にする。
ユグドラシルは足を止め、振り返らずに答えた。
「わかっているわ。全てを事実通りに語る必要はないの」
女神は優雅に指先で枝葉を撫で、光の粒子を払った。
「都合の良い解釈を選び、相手が受け入れやすい言葉を選ぶ。
これは“人の交渉術”。昔の友人――トリックスターの得意なやり方よ。
私は少しだけ真似させてもらったの」
トリックスター――これは一部の者しか知らない名。
だが女神の声音から、その存在がただ者ではないと読み取れる。
サリエルは気圧されるように頭を下げた。
「……見習わせていただきます」
「無理をしなくていいわ、サリエル」
ユグドラシルの声は、あくまで優しかった。
「貴女には最初から“存在意義”が植え付けられている。
役割以上のことを背負う必要はないの。
だからこそ、今回は私自身が赴いたのよ」
「ご配慮いただき、感謝申し上げます」
その返答の間に、女神ユグドラシルは目を閉じたまま世界の気配を読む。
風も音も消えたかのような静寂が訪れ――
どれほどの時間が流れたのかは誰にもわからない。
ここは、世界の中心。外界とは違うリズムで時が進む場所だ。
そして、女神は目を開け、静かに告げる。
「大天使サリエル」
その声には、先ほどまでの柔らかさとは異なる、神としての威厳が宿っていた。
「これより、今後のために貴女の力をさらに引き出します」
サリエルは片膝をつき、深く頭を垂れた。
「畏まりました。主の御心のままに」
二人の間に長年積み重なった信頼が滲む。
ユグドラシルは続けた。
「必要なのは――新たな“眼”です。
私の力の一部を貴女に預け、一時的に最高位天使に昇華させます。
その状態で、新たな眷属をお創りなさい」
サリエルが息を呑む音が、かすかに響いた。
「主よ……そのようなことをなされては、貴女様の御力に影響が……!」
懸命な制止。
だがユグドラシルは首を横に振った。
「構いません。それほどに事態は悪化している。私の一時的な弱体化など、詮無きこと」
静かだが揺るぎない決意。
サリエルは深く、深く頭を垂れた。
「……御意のままに」
女神はその姿に穏やかに微笑む。
「苦労をかけるわね、サリエル」
「貴女様のためならば、いかなる苦労も」
完全なる忠誠。
長き年月をともにした主従の絆が、確かにそこにあった。
「では――準備をしましょう」
ユグドラシルは光の揺らぎの中へ歩を進める。
「私の子供たちが、手遅れにならないように……」
サリエルは一歩遅れてその背に続き、
二人は世界樹の深奥へと静かに姿を消した。
更新日は毎週火、木曜日の11時更新となります。
元のペースに戻せそうになり次第、お知らせいたします。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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