第百三夜:それぞれの捉え方
――ミルベーナ――
フォスターの言うことも、もっともだ。
だが、私も……思い出そうとしても、どうしても“その時”の記憶が出てこない。
まるで記憶に蓋があるというより、その蓋すら見当たらない。
どこを探しても、何も掴めない。
そんな感覚だった。
静寂の中で、それぞれの思考が沈んでいく。
泉の水音が、やけに大きく感じた。
その沈黙を破ったのは、リージュの小さな声だった。
「……女神さま……あたしは、思い出すのが……怖いです」
掠れるような声。震える指。
その声には、かつて傷ついた誰かの“恐怖”がそのまま滲んでいた。
「……大丈夫ですよ、リージュ」
女神は一歩近づき、彼女をそっと抱きしめた。
泉の光が女神の腕を包み込み、柔らかく、温かく揺れる。
「あなたの“怖い記憶”は、そのまま思い出さなくてもいいのですよ」
優しく撫でるような声だった。
リージュの肩の震えが、少しずつ静まっていく。
……そう言えば、リージュは私たちとは違い、ほぼ全ての記憶がないのではなかったか。
もしかすると、彼女の“欠損”は――。
「唯一神よ、質問をお許しください。」
私は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「ミルベーナ、普通に話してくれていいのよ。何かしら?」
女神の声は、穏やかで、柔らかく、まるで母のようだった。
けれど……私には、そういう優しい声を向けられた記憶があまりなかった。
それは覚えている。それが、少しだけ胸を締めつけた。
「記憶の欠損が“代償”だと言うならば……一つ、心当たりがあります。
夢の中で、薄く、薄く……掴めないもののように“記憶”が現れるのです。
ですが――リージュは何故、全ての記憶を無くしているのでしょうか?」
私の問いに、女神はリージュを抱いたまま、静かに息をついた。
その表情は、どこか哀しげで……でも、深い優しさがあった。
「記憶の欠損は、多かれ少なかれ、すべての天使に存在します。
ただし、その大半は“悪夢”のような記憶のみです」
……悪夢?
心の奥に、冷たい針が刺さったような違和感。
その言葉に、なにか“違う”と感じた。
「リージュの場合は、天使としての力にも大きく影響を及ぼしています。
――“久遠の虹結晶”」
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に光景がよぎった。
アンドレアルフス封印のとき――あの虹色の光。
「久遠の虹結晶……あのときの……!」
ユグドラシルは静かにうなずいた。
「そう。あの力を宿す天使は、強大な力を有する。
けれど、その代わりに……“心の均衡”を保つことが難しいのです」
言葉の合間に、わずかに沈黙が落ちる。
まるで、彼女自身も“答えを言いたくない”ような。
「思い出したくない――しかし、それでも“人を救いたい”と願う強い想い。
その二つがせめぎ合い、彼女の記憶は、光と共に封じられたのです」
「……それが、答えです」
その答えに、誰もすぐには声を出せなかった。
答え?
いいや、違う。
それは“説明”ではあるけれど、答えじゃない。
思い出したくない――その言葉の奥に、何かもっと深い闇がある気がした。
女神の微笑みは、どこまでも穏やかで、どこまでも悲しかった。
まるで――“その闇の存在”を知っているように。
――ジーク――
……違う。
ユグドラシル様の言っていることは嘘じゃない……はずだ。
でも、何かが違う。胸の奥がざわついた。
リージュは“思い出したくない記憶”を抱えてる。
それを無理に暴くのは、きっと良くない。
頭ではそう思うのに――
あの時の涙を思い出す。
ワルツハイムで見たであろう、覚えてない“夢”
ただ、胸の奥が空っぽになるような喪失感だけが残って、
胸の中心が、ぎゅっと、苦しくなったのを覚えてる。
「リージュ、貴女を含め、皆の記憶の欠損は思い出さなくても良いもの。
いえ……貴方達自身が“思い出したくない”と願ったことでもあるの」
ユグドラシル様の声は相変わらず優しくて、
でも、その優しさの奥に“何か隠している気配”がどうしても拭えなかった。
僕は静かに息を吸って、胸元のフェリオの頭をそっと撫でた。
小さな体はあたたかくて、確かに“ここ”にいる。
「……僕はね」
気づけば言葉が勝手にこぼれていた。
「たとえ自分で願ったことだとしても……
フェリオやフォスターの記憶がなくなってたって考えたら……その……許せないかも……」
とても小さな声だったと思う。
でも、ユグドラシル様は確かに聞いていた。
「そうよね、ジーク。」
女神は少し寂しそうに微笑んだ。
「少し間違えば……その記憶も、消えていたかもしれない」
……一瞬、言葉を切られた気がする。
まるで、言ってはいけないことを喉の奥で止めたみたいに。
その沈黙が妙に怖かった。
「でもね、“思い出す”のは……やめてほしいの」
静かに、深く、祈るような声だった。
「でなければ皆……リージュのように、苦しむことになります」
女神はそのまま、リージュの頬に手を添え――
そっと見つめた。
「今でも怖くてたまらないでしょう?」
リージュの肩が震える。
胸が痛かった。
「リージュ……今までそんなに怖かったなら……言ってくれれば良かったのに」
僕は、責めるつもりなんてなかった。
ただ――ただ、寄り添いたかっただけだ。
「あたし……あた、し、は……」
リージュはうつむいたまま、言葉をこぼせないでいる。
「ごめん。責めてるわけじゃないんだよ。」
僕はそっと手を伸ばして、彼女の肩に触れた。
「もっと頼ってくれていいって……言いたかっただけなんだ」
本当は、もっと聞きたいことがあった。
彼女自身のこと、消えた記憶のこと、
ミルベーナが見たという“夢の記憶”のことも。
でも――今はそんなことよりも、
震えるリージュの方が、ずっと大事だった。
胸の奥に残っているざらついた不安だけが、小さく疼いていた。
更新日は毎週火、木曜日の11時更新となります。
元のペースに戻せそうになり次第、お知らせいたします。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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