第百一夜:ユグドラシル
泉の光がゆるやかに落ち着き、代わりに薄紅の残光が、闇に滲むように揺れていた。
その中心に――六枚の翼を広げた大天使、サリエルが降り立っていた。
羽の一枚一枚が、まるで光そのものから削り出されたかのように眩く、
静かに震えるたび、周囲の水面が波紋を描いて広がっていく。
誰もが息を呑んだ。
焚き火の赤い光は消え、辺りはただ、サリエルが放つ神々しい薄紅の光に支配されていた。
「久方ぶりです――天使ロゼリア、天使ミルベーナ、天使リージュ、天使フォスター、そして天使ジーク」
口元を覆う銀の仮面。その奥から響く声は、まるで胸の奥に直接届くようだった。
低くも清らかで、ひとつひとつの言葉が心を貫く。
その名を呼ばれた全員が跪いたまま、ただ呆然と見上げることしかできなかった。
空気は凍りつくように静まり返り、泉の表面に映る光の柱がゆらめく。
「ここはルミナリエの泉。世界樹ユグドラシルの根が最も深く息づく、聖なる交点。
世界の中心より流れ込む波動に異変を感じ、我はここへ降臨した。助言を授けるために」
その言葉のひとつひとつが、空を震わせる。
聴く者の魂を見透かすような視線に、誰も口を開けなかった。
やがて――。
「ありがとうございます!大天使サリエルよ!!」
緊張を破ったのは、やはりロゼリアだった。
いつも通りの通る声に、空気が一瞬だけほぐれる。
その勢いに、皆もようやく我に返ったようだった。
フォスターが口を開こうとした。
「あ、の! サリエルさ――」
だがその声を遮るように、サリエルが片手を静かにかざした。
まるで時間そのものが止まるように、風の音が消える。
「まずは――ミルベーナ」
呼ばれた名に、ミルベーナが息をのむ。
胸の奥が熱くなり、背筋が自然と伸びた。
「魔界より来て、速やかにノルディグラードの背信の徒――ロクス・レナードを処断。
さらに悪魔ルーメン・ドミトールを討ち、街を浄化するという大義、見事であった」
声は厳しくも、そこには明確な敬意が宿っていた。
ただの報告ではない。
一つひとつの言葉が、聖典の記述のように重みを持って響く。
「その後、他の者と共に“六命のアンドレアルフス”を再び封印し、
“死の大軍勢”の襲来を退けた功。いずれも、他の天使と比べ物にならぬ働きである。
――その忠誠、その心、誇るが良い」
最後の言葉は、雷鳴のように大地を震わせ、
同時に泉の光が淡く脈動する。
ミルベーナはただ、胸に手を当てたまま頭を垂れた。
その声の余韻が、確かに彼女の心の奥に刻まれていく。
「汝にはこの土地――ファルムスに向かうよう伝えていたが……」
サリエルの声が泉に反響する。
「よもや別に三人もの天使が、ひとところに集っていようとは」
淡く光る六枚の翼が、夜気を震わせる。
その金の瞳が、静かにフォスターたちを見据えた。
何かを計るような、厳しい光。
まるで魂の奥底を見透かされているようだった。
「……っ」
ジークが息を飲み、勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。
「あ、あの、僕たちは――」
その声を遮るように、ミルベーナが前に出た。
「大天使サリエルよ!」
水面に映る光が、彼女の足もとを照らす。
顔を上げ、まっすぐにサリエルを見つめた。
「彼らがいなければ、アンドレアルフスの封印も、死の大行進も――切り抜けることは叶いませんでした!」
ミルベーナの声が震える。だが、その眼差しは決して揺らがなかった。
「ここまで辿り着けたのは、この三人の力あってのこと! どうか、ご慈悲を……!」
サリエルはしばし黙したまま、彼女を見つめる。
泉の光が彼女の翼をゆらめかせ、周囲の空気が重く沈む。
その沈黙が永遠に思えたその時――。
「……良かろう」
低く、しかし確かな響きが空間を震わせる。
「世界の情勢はいま、静かに変容を始めている。その流れを鑑み、この件は不問とする。
新たに――四人でファルムスに常駐し、この地の監視を命ずる。」
言葉と同時に、四人の身体を柔らかな光が包んだ。
だがその直前、一瞬だけ走った怒りの波動は、フォスターとジークの胸を貫いていた。
肌を焦がすような威圧。
息をすることさえ忘れる。
その力の差に、自然と頭が垂れた。
「大天使サリエルよ!四人も天使を増やしていただけるのですね!!」
また響く、張りのある声。ロゼリアだ。
満面の笑みで両手を広げ、全力で喜びを表現している。
サリエルは困惑にも似た表情を一瞬だけ見せ、再び片手をかざした。
その仕草ひとつで風が止み、彼女の口から音が消える。
「……静まれ、蒼穹の守護天使よ……」
わずかに滲む苦笑。神聖な威圧の中で、それが逆に人間味を際立たせた。
その隙に、ジークが恐る恐る問いを投げた。
「あ、あの……もしかして、ファルムス帝国は……天使が少ないんですか?」
サリエルの瞳がゆっくりと彼を見た。
ほんの一瞬、何かを計るような間。
「……此の地は今、未知の波動が渦巻き、世界樹の根すら歪めている。
特に“ネクロス”の脅威が強まっているのだ。」
声は静かだが、底知れぬ重みを持つ。
「人数については問うな。重要なのは――大義をこなす質。
調査とともに、人々を救うこと。それを、心に刻め。」
その最後の言葉が告げられた瞬間、泉の水面が光を返し、波紋が広がる。
風が戻り、夜が再び動き出した。
ロゼリアは目を輝かせ、ミルベーナは胸に手を当てる。
フォスターとジークはまだ息を整えながら、
目の前にいる“存在そのものが奇跡”のような光景を、ただ黙って見上げていた。
「あ、あの!……大天使、サリエル……様……!」
最初に声を上げたのはリージュだった。
普段は明るい彼女の声が、今は震えている。
皆がサリエルの光に圧倒され、息をすることさえ忘れていた。
その中でリージュだけが、かすかに一歩踏み出す。
「……あたし、記憶が……ないんです」
自分でも何を言っているのかわからないまま、言葉が口をつく。
「ノルディグラードで、ミナに助けてもらってから……自分が天使なのも、ぜんぜん思い出せなくて……」
サリエルの金の瞳が、ゆっくりと彼女を見据える。
冷たくも、透き通った光。
リージュはその視線だけで、心の奥を見透かされている気がした。
(あたし……何か、悪いことをしたのかな……?)
喉が渇く。言葉が続かない。
他の誰も口を開けない。泉の音だけが静かに響いていた。
サリエルが、一歩前に出る。
六枚の翼が広がり、光の羽片が空気に舞う。
「……その件については――」
更に荘厳な、それでいて慈愛に満ちた声が夜を裂いた。
だが、彼女が言葉を続けようとした瞬間――。
「そのことは、私から説明しましょう」
声がした。
柔らかく、それでいて大地の奥から響くような声だった。
サリエルが目を見開く。
彼女ほどの存在でさえ、表情にわずかな驚きが走る。
背後――泉の奥から、無数の蔓が静かに伸び、空気が震える。
水面からは光の粒が舞い上がり、緑と金の風が渦を描いた。
その中に、ひとりの女性が現れる。
白銀の髪が流れ、翠の光が彼女の周囲を包み込む。
花の香りとともに、空気そのものが優しさを帯びていく。
「……め、女神……ユグドラシル様……」
サリエルの言葉にロゼリアが息を呑む。
声が震え、目を見開いた。
彼女の出現は、圧倒的な威圧ではなく、
すべてを包み込むような温もりに満ちていた。
「よろしいかしら、サリエル」
その微笑みは、母のように穏やかで、泉の光と調和している。
サリエルは片膝をつき、深く頭を垂れた。
「主よ……まさか、御身がこの場に現れられるとは……」
「ええ。少しだけ、彼らと話をしておきたくて」
ユグドラシルは静かに歩みを進める
彼女が踏むたび、草が柔らかく輝き、泉が歌うように波紋を描いた。
その姿を前に、リージュはただ見とれることしかできなかった。
どこか懐かしい――けれど、言葉にできない温かさ。
「リージュ、あなたのことは、私が知っています」
ユグドラシルがリージュの頬に手を伸ばし、そっと触れる。
「怖がらなくていいのですよ。失われたものには、意味があります。」
その瞬間、リージュの目に涙が浮かんだ。
サリエルの背にある六翼が、静かにたたまれる。
「……主よ。すべて、御意のままに」
サリエルの声には、もはや威厳ではなく、深い信頼が宿っていた。
ユグドラシルは優しくうなずき、泉の方へと視線を向ける。
泉が静かに光を増し、星々が一斉に瞬きを強めた。
100話突破、ありがとー!!
いつも通り更新していきますね!!
更新日は毎週火、木曜日の11時更新となります。
元のペースに戻せそうになり次第、お知らせいたします。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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