死後の世界に安息を! その二
ミズガルズの東方は冬が終わろうとしていた。二人は街から離れた施設へと脚を進めた。白い服を着た者達が歩き回り、点滴を横にした中年の男が廊下を歩いていた。
「病院ではないか。病院はオーディン信仰とは一番遠い場所ではないか。ってかむしろ脚を踏み入れたらそれだけで仏教になるのではないか」
少しだけ暗い廊下を歩きながらロキは呟いた。その前を黙ってトールは進んでいく。不思議とその足取りは早い。
その内の一つの部屋でトールは立ち止まった。そこの右上には『岡田 幸三郎』と書かれた札が張ってあった。
「ここだ、ここにいる奴の信仰を失わせろ」
「……なるほど、戦死以外はニヴル・ヘル行きということか」
ロキが部屋を覗くと、そこには窓を眺める老人が一人いた。随分痩せた男で、白く細い髪が何本も伸びているのがわかる。細い腕や窪んだ顔はもはや長くは無いことの証明のようだ。薄くしなびた肌は既に亡者のようにも見える。
「さて……何か情報はないのか」
「無いわけではない。温厚な者で定年まで会社員をやっていた。結婚もしておらず身内は居ない。だが頭ははっきりしているので会話はできる」
「それでは情報が無いようなものではないか。まあいい……私様が自然に転向しようではないか……」
岡田幸三郎は外を眺める。明るい季節は好きだ。その気配だけでも十分に心を楽にすることが出来る。まさか自分がこんな穏やかな最後を遂げるとは。
幸三郎の近くの棚にはボロボロの本がある。古い表紙の英語の本で、『Norse mythology』と書かれている。他には着替えやらが床に置かれているが質素に見える。体力も時間も無い彼はもう本のページ一つ開くことはできないだろう。
静かな部屋で訪れるものは看護士と医師ばかりだ。亡くなった後は身寄りの無い幸三郎は決まった流れにより消えていくことなるだろう。
だがいつもとは違う時間にコンコンというノックが響いた。幾らかのチューブの付いた体で幸三郎は音の方を見た。
「御免ください」
そこに入って来たのは……なんと、傘を被った背の高い中年くらいの坊さんではないか。なんとも酷いものだと幸三郎は苦笑した。死の前に本人と打ち合わせをしようというのか。
「えー私様は……仏教の坊さんで、名は……まあいいでしょう」
「変な和尚さんですな。ご用件があるならば手短に。疲れてしまうので」
「そうですな。ところでこの先幾らかの行事がありますが……とにかく、貴方には仏教を信じて頂きたいのです」
「またおかしいですね。死に行く者にそんな説法を説くとは」
「いや、別に仏教が気に入らなくても良いのです。別に十字架でもいいですし、儒教でもいいでしょう。また神など居ないと信ずるのもいいでしょう。しかし……その本を信じるのはやめなさい」
坊さんは古びた本に視線を向けながら言った。ますます変な坊主だと幸三郎は思ったが、同時に妙に鋭い奴だと感心した。
「ご名答です。太平洋戦争前から大学でこれを学びまして、それ以来ずっとこの神々に憧れておりました。零戦に時も陸で戦った際も、その後に会社員となりましたときも、ずっとヴェルハラの宴など浮かべていたものでした……な」
「しかし病死はニヴル・ヘイム行きではないですか。でしたら輪廻転生諸行無常を唄う仏教を信じなさった方が安息を得られるのです。今ならば私様が死後の安息を保証しましょう」
「坊さんなのに随分と詳しいのですね。ですが放っておいて頂けませんか。先の短い老人の頼みです。死した後ならば、お任せしましょう」
「いや、それでは意味がないのだ。大体、ヴァルハラというところはLANもありませんし、漫画もありませぬ。まったく焦がれるような場所ではないのです。またニヴル・ヘルには地獄のような苦しみが待っているのです。ですが極楽には光回線も漫画もブック〇フもあるでしょう。もしやハーレム展開も夢ではないのです。今なら現世での罪は帳消しになります」
「いっておることが分かりかねますが……まあ、それでいいのです」
否定すると坊さんはむっとしたように口元を歪ませた。
「貴様はニヴル・ヘルがどういう所か知らぬから言えるのだ」
「女王ヘルの支配する国ですな……永遠と苦痛と屈辱を与えられる場所でしょう」
「……わかっているではないか」
「それでいいのです。もういいでしょうか。疲れたのです」
「……分かりました。また明日にでも伺いましょう」
「お時間を取らせてしまいます。後のことはお任せしますから……」
そう言うと、幸三郎はベッドに横になった。それを見ると坊さんはそのまま部屋から出て行ってしまった。外からは何か幾らか医師と坊主の声と誰かが走る音が聞こえた……
「くそ! 何なんだ! 何故坊主の説法でも聴こうとしないのだ!」
ロキはバンバンと床を脚で踏みつける。乾いた音が病院の廊下に響く。
「ちょっと! 病院では静かにしなさい!」
「ひぃ!」
だがまるで巨人のような形相の女性の看護士が叫ぶとロキは怯えた声を出して縮こまってしまった。
「さて……悪神よ、どうだった」
心配そうにトールが尋ねると、ロキはまったくも表情を硬くするばかりだ。
「まったく、頭の固い爺さんってのは分かった。大体嘘でも一言『坊さんを信じる』とか言えばいいものを、頑なに拒みやがった。まったく、何なのだ!」
「まあ、そうだろうな……しかし見た通り時間も無い。早く次の策略を早く考えろ」
「簡単に言ってくれる。そうだな……まあ、他にも方法が無いわけではないからな……」




