Regret in the afterglow
「夕陽が綺麗ね。少し眩しいけど」
昨日より明るい空の下を、私は素知らぬ顔をして歩いていた。奇妙な空間を開けて一樹が続く。私が少しずつ歩調を緩めると、追いついた一樹が不安そうな瞳を数回瞬かせ、そして並ぶ。
しばらくの静寂。足音、風音、排気音。それがこの胸の疼きを誤魔化してくれなかったなら、きっと叫び出してしまっていただろう。何かで平坦な空を掻き乱してしまわなければ、押し殺した声が胸中で迸ってこの瞳を滅茶苦茶に壊してしまう、そんな笑い飛ばしたくなる確信が、今全く笑えそうもない心内で抱けてしまっているのだから。
息が詰まりそうだ。
酸素もろくに入らないまま膨らんだ肺が心臓を圧迫している。かあっと熱を持つ眦。違う、おかしい。言わなきゃ。一緒に書く気でいるなら、私はどういう気持ちで物語に向かいたいと思っているのか。そして、一樹にも同じ気持ちで書かせてもらいたいことも、言わなきゃいけない。だけど、さっきまであんなに苛立っていたはずなのに、腹が立って仕方なかったはずなのに、どうして泣きそうなの?
ああ、そうだ、きっとそうだ。ちらりとでも一瞬、一樹の顔を見てしまった。
その表情が何故か、とても、――傷ついたようで。
だからこんなに苦しくて、怒るにも怒れなくなってしまった。
――どうして?
一樹が傷ついたような顔をしているからって、私の胸が痛む理由なんてない。『相棒』だから? その言葉を始めから、信用していようとも信頼していなかった私が、その言葉を理由に一樹を傷つけることを躊躇っているとでもいうのだろうか。堂々と自分の物書きとしての正義を主張し、怒鳴り散らすでも怒りを叩き付けるでもすればいい話だというのに、そんな一抹の申し訳なさが阻んで敵わないとは。
確かなことはたった一つだった。理由の在も不在もない。私は、一樹を傷つけたくないのだ。
あのひびの入った硝子のような、不安定でぐらぐら揺れて、あと一押しで砕け散ってしまう危うさに踏み込むことが出来ない。
そのとき、おずおずと彼が口を開いた。
「……その、どうして帰るんです? まだ、二日目じゃ」
歩き始めてどれくらい経ってから、今更そんなことを言うのだろう。もう学校は振り返ったって見えない。燻りかけていた怒気がちろと火をのぞかせ、細かな火花を放った。
「君がそれを言うの?」
反射的に噛み付いてしまい、一樹がなおも眉を寄せて身をすくめるのを眺める。一体何をしているんだろう、私。かつて遠目から見ていた近しい関係というのは、実際にその立場になってみるとこんなに怖いのだろうか。こんな薄氷のようなうすら寒い仲、一体どうやって上手く取り持っているのだろう。人の付き合いに慣れている訳がないのだ、どこまで『他人』に踏み込んでいいかなんて掴めるわけがない!
また少しの痛い沈黙を挟んで、一樹。
「お、怒ってます……よね。ごめんなさい、僕のせいですか……?」
ああ、もう、そんな瞳をしないで。
栗色の瞳を透かした先に、傷だらけでぼろぼろの心が覗いて見える。だというのに、表面に張り付いた私への気遣いの色。自分の痛みを隠してまで人を心配できる一樹が羨ましくてたまらなくなった。どうしてこんなに綺麗なんだろう。
どう責められようか。たとえ非があったって――いや、悪いのは最早一樹ではないのかもしれなかった。
――初めて書くというのに、私と同じ気概を一樹にも求めるなんて。しかもそれを事前に伝えずに突然立ち上がってしまうなんて、悪いのは独り善がりな私ではないだろうか?
頭の中がぐちゃぐちゃして全くまとまりがつかない。この言葉のほかに吐き出せるものも無かった。
「……わからないわ」
「わからない、って……」
全て打ち明けろと、向かいの栗色が言う。
私は立ち止まり、一樹から顔を背けていた。彼の声も顔ももう要らない。私をぐしゃぐしゃに歪めるそれらを前にしてしまえば、言葉はもう私のものではなくなる。口にするならせめて真実を。そのために私は、『独り』になりたかったのだ。
「確かに私は、怒ってる。でも、君のせいじゃないかもしれないとも思うのよ。何も話さないまま、君に私と同じものを無意識に要求した私が悪いのかもって」
一樹は何かを言いかけ、唇を噛んで躊躇い、それから私へ一歩踏み寄ると言った。
「今日の僕は、出来ませんでしたけど。君が僕に求めていること、知りたいです。だって僕は」
その次に来る言葉が予感出来た瞬間、頭の隅で何かが弾けた音を聞いた。
「その相棒の君が!! ……そんなひどい、ボロボロの顔をしている今、君は私にっ……聞かせろって、言うの!? 私が君に求めること、今日の執筆を中断するほど苛立っていたこと、それを聞けるの、君は!」
思考の裏で瞬く白熱した意識。高く高く伸びた火が逆巻いて想いを燃やし尽くす。私は混乱する思考の中で唯一、じわりと溢れ出した涙がまだ目じりに留まっていることに安心していた。何時の間に振り向いたのか、驚きに見開かれる瞳が目の前にあった。
「あ……」
私は、知らなかったのだ。一樹が私にとって、大切な『相手』だったことを。
一樹を傷付けるのが怖くて怖くてたまらなくて、あんなに言いたかったことも、それが告げなければならないものになり替わった途端放り棄てたくなって。どうか言わせるなとまだ叫んでやりたかった。喉の奥で出かかった叫びが渦巻いていた。だが、それはきっと発したとしても意味をなさないものだった。
潤んだ視界では、一樹の姿がぐにゃりと歪んでいた。火が付いた私の頭ではろくに認識も出来ていなかっただろう。しかし役に立たない視覚の代わりに、聴覚は確かに一樹を捉えていた。
「……飛鳥、君は。君は、そうやって――」
私は、朦朧とする頭でそれを聞いていた。
「――そうやって、苦しみ続けていたんですか」