第九話:798円と高級会食
その後、里桜の体になってしまっている湊は佐藤に言われた通り、里桜の過去の通話記録をいくつか確認し、実際に一件のクレーム対応を行った。
相手の話を途中で遮らず、すぐに結論を提示することも避けた。
何に不満を感じているのかを先に確認し、必要な部分だけ謝罪する。
完全に理解できたとは言い難いが、少なくとも電話を切られることはなかった。
「……なるほど」
対応履歴を入力し終えたところで、フロアの空気が少しだけ緩んだ。
「里桜、お昼行こ」
隣の佐藤が立ち上がりながら声をかけてきた。
湊も席を立とうとして、佐藤がふと机の上を見た。
「あれ?」
「何だ」
「また『何だ』って言ってる」
湊は黙って言い直した。
「……何?」
佐藤は満足そうに頷いたあと、もう一度机の上を見る。
「里桜、今日お弁当ないの?」
「弁当?」
「いつも持ってきてるじゃん。今日は作らなかったの?」
「…………」
当然ながら、今朝はそんなものを用意していない。
「今日は……時間がなかった」
「珍しいね。いつも夜に作ってるって言ってなかったっけ?」
佐藤は何気なく言った。
「里桜、コンビニ高いからって、ほぼ毎日自炊してるのに」
湊の視線が僅かに止まる。
「毎日?」
「うん。休みの日に作り置きしてるじゃん。『昼ご飯に七百円とか毎日払ってられん』って」
「…………」
七百円。
普段の自分であれば、昼食の値段など気にしたことすらない。
社内で済ませることもあれば、取引先との会食になることもある。
金額を確認する必要そのものがなかった。
だが、今の自分は佐伯里桜だ。
「じゃ、私先行くね。混むから」
「ああ」
佐藤を見送り、湊は鞄から財布を取り出し、中を覗き込む。
千円札が一枚。硬貨が数枚。
「…………」
思わず、もう一度確認した。
増えるはずもない。
「…………」
財布を閉じかけたところで、今朝確認したスマートフォンケースのことを思い出す。免許証が入っていたポケットには、もう一枚カードがあった。
取り出して確認すると、やはりクレジットカードだった。
湊の手が止まった。
(本人の許可なく、他人名義のクレジットカードを使用する?論外だ……だが)
この身体は朝から腹痛と腰痛を抱え、継続的な大量出血までしている。朝食も満足に取れていない状態で、このまま午後の業務に入る事も問題だった。
湊は数秒考え、結論を出した。
(佐伯の身体で栄養補給をしない。それこそ彼女にとって悪影響だ)
スマートフォンと財布を持ち、湊は会社近くのコンビニへ向かった。
昼時の店内は混雑していた。
ビジネス街のコンビニはスーツを着たサラリーマンやオフィスカジュアルの女性でごった返していた。
湊は、弁当やおにぎりの並ぶ棚の前で立ち止まり、何気なく値札を見る。
598円。698円。
800円を超えるものもある。
(……佐伯は、これを高いと判断するのか)
しばらく棚を見たあと、湊は弁当と温かいスープを手に取った。
会計を済ませながら、使用金額を頭の中に記録する。
798円。
(佐伯、後で必ず返す)
◇◇◇
その頃、都心の一等地にある高級ホテルのレストランで、湊の姿をした里桜は、人生で一度も見たことのないほど美しく盛り付けられた料理を前に座っていた。
目の前には、A社の役員が二人。
隣には神崎。
白いテーブルクロスの上には銀色のカトラリーが規則正しく並び、グラスには水が注がれている。洗練された空間に、選び抜かれたインテリアや豪奢な食器類。
そして、料理は間違いなく美味しい。
……はずだ。
「高橋社長。先日お話しした件ですが」
役員の一人が穏やかな笑みを浮かべる。
「弊社としては、今期中にある程度方向性を固めたいと考えておりまして」
「……なるほど」
里桜はそれらしい顔で頷いた。
(何の方向性だよ。全然分かんないんだけど。とりあえず話合わせるしかない)
午前中の役員会議なら、分からなければ神崎へ振ればよかった。
しかし今ここで話しているのは、相手企業との今後の取引に関わる話っぽい。
しかも、相手は何一つはっきり言わない。
「もちろん、御社としても一定のメリットはあるかと存じます」
「ええ」
何のメリットだ。
「石黒会長も、今回の動きには関心を示されていると伺っております」
(……石黒。誰やねん。会長だったら社長の上。偉い人か!)
里桜はぎゅっと唇を閉じ、膝の上でスマートフォンをそっと操作した。
(……絶対あかんやつだけど、背に腹は代えられない! 湊の会社が傾くのはさすがに困る!)
録音を開始する。
自分には理解できなくても、本人なら分かるはずだ。
「高橋社長としては、どの程度まで踏み込むお考えでしょうか」
里桜はグラスへ手を伸ばし、一口水を飲んだ。
(……これは少しでもヘマしたらダメだ。どうする? どうやり過ごす?)
水しか入っていないグラスを、なぜかくるくると回してみる。
里桜はその中をじっと見つめた。
「……重要な案件だ」
自分でも驚くほど低く、落ち着いた声が出た。
役員たちが僅かに姿勢を正す。
「この場で即答するべき内容ではないと考えている」
里桜はゆっくりと続けた。
「社内で精査した上で、改めて回答する」
数秒の沈黙のあと、A社の役員たちの間に微かな動揺が走ったのが分かった。
(……なんだ? 私、変なこと言った?)
里桜には知る由もない。
普段の高橋湊であれば、この程度の牽制には即座に「直近の市場データ」と「予想収益率」を提示し、コンマ一パーセントの利益まで数字を用いて冷徹に詰めてくるはずなのだ。
数字と論理を武器に相手の退路を断つあの『サイボーグ経営者』が、明確な数値目標も出さずに「持ち帰る」など、本来ならあり得ない。
しかし、A社の役員はすぐさま穏やかな笑みを取り繕って頷いた。
「承知いたしました。高橋社長からそのようなお言葉が出るとは……何か深いお考えがおありなのでしょう。慎重にご検討いただければと思います」
通った。
里桜は内心で盛大に息を吐いた。
だが……その後も会話は続いた。
市場、投資、提携、収益性、将来的なシナジー。
聞き覚えのない単語が、次から次へと飛び交う。
里桜は相手の話を聞きながら、せめてもの防衛策として、ひたすら愛想笑いで相槌を打った。
だが、笑顔を作るたびに、A社の役員と神崎からは信じられないものを見るような、ひどく怪訝な表情を向けられる。
(なんで!? 笑顔、ダメなの!?)
無理もない。彼らの知る高橋湊は、会食の場であろうとデータに基づいた氷のような正論しか吐かず、意味のない愛想笑いなど細胞レベルで持ち合わせていない男だからだ。
判断を求められそうになるたびに、「検討する」「精査する」「改めて回答する」を駆使して逃げ続けた。
午前中の役員会議とは違い、ここでは適当なことを言えば、それがそのまま会社の意思になる。
自分の一言で何億円、何十億円という金が動く可能性すらある。
責任と重圧に押しつぶされそうになる。
やがて会食が終わり、A社の役員たちと別れたあと、里桜はホテルのロビーにあるソファへ深く腰を下ろした。
神崎は少し離れた場所で電話をしている。
一人になった途端、里桜は大きく息を吐いた。
「……疲れた」
普段なら絶対に食べられないような豪華な料理だった。
だが。
「すっごい豪華だったのに、美味しかったかどうか、そもそもどんな味がしたかも分かんないや……」
里桜は天井を見上げた。
朝は、男の身体は楽だと思った。
神崎さえいればなんとかなると思った。
けれど、湊は毎日こんなふうに、常に数字とデータで相手をねじ伏せ、何気ない一言まで会社の重大な判断として扱われながら生きているのだろうか。
「湊って、いつもこんな気分でご飯食べてるのかな」
ぽつりと呟いた声は、広いロビーの雑音に紛れて消えた。




