第十話:疲れた時には、イケメンかうまいメシ
長かった一日が、ようやく終わった。
里桜の身体でコールセンターを出た湊は、朝と同じ満員電車に揺られ、ようやく彼女の狭いマンションへ戻ってきた。
玄関の鍵を開け、照明をつける。
朝は状況を把握するだけで精一杯だったが、改めて見ると、やはり自分の家とは何もかもが違う。
決して広くはない部屋に、生活に必要な家具が隙間なく収まっている。
花柄のシーツ、ソファに置かれたクッション、棚の上には細々とした日用品。
生活感というものを極限まで排除した自身の自宅とは正反対だった。
そして、部屋には香りが残っていた。
柑橘系の爽やかさの中に、ほんの僅かに甘さが混じっている。
香水なのか、柔軟剤なのか、それとも彼女が使っている化粧品なのかは分からない。
ただ、この部屋に足を踏み入れた瞬間から感じていた香りだった。
(佐伯里桜の香りか)
湊は無意識にそう認識してから、静かに鞄を置いた。
◇◇◇
一方その頃、里桜もまた、高橋湊としての長すぎる一日を終えていた。
神崎から解放され、高層階にある湊の自宅へ帰ってきたのは、すでに夜だった。
「つっっっかれたぁ……!」
玄関を入るなり、里桜は低い声で盛大に叫んだ。
朝は感動した広いリビングも、今はただソファまでの距離が遠い。鞄を放り出し、ネクタイを緩めながらソファへ倒れ込む。
会食のあとも仕事は続いた。経営企画、M&A、予算、投資。今日一日で聞いた言葉の半分も理解できていない。
このままではまずいと思い、帰りの車では会食中に出てきた単語を片っ端から検索した。
シナジー、ROI、デューデリジェンス、EBITDA。
「…………」
無理だった。スマートフォンがソファに投げ出される。
一つ調べると、その説明文の中に知らない単語が三つ出てくる。
三つ調べれば、さらに知らない単語が増える。勉強すればするほど分からないことが増えていくという、非常に腹立たしい構造だった。
「もう今日は無理!」
そして、里桜は大きな姿見の前に立ち上がった。
「疲れた時には、イケメンよね」
そこには、ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外した長身の男が映っていた。
里桜は少し顎を引いてみる。腕を組む。今度は片手をポケットに入れて、斜めに立つ。
「…………」
悪くない。というより、どうやっても格好いい。その格好良さが寧ろ腹立たしい。
試しに前髪を掻き上げてみる。
「いや、ほんとこの顔と体、女ホイホイだよな」
鏡の中の高橋湊が、満足そうに笑った。
「ずるくない? 何してもイケメンじゃん」
◇◇◇
その頃、本人は里桜の部屋でスマートフォンを手に取っていた。
時刻を確認し、少し考える。
自分の会社で何があったのか確認しなければならないし、こちらからも佐伯に伝えるべきことがある。
湊は自分の番号を呼び出し、発信した。
しかし、出ない。
「…………なぜ出ない」
もう一度かけようとした、その時、今度は向こうから着信が入った。
表示されているのは、自身の電話番号。湊は眉を寄せながら応答する。
「佐伯」
『もしもしー』
「なぜ出なかった」
『電話代かかるから』
「…………何?」
『今そっちが持ってるの、私のスマホでしょ? 湊からかけてきた電話に出たら私の通話料はかからないけど、私からそっちにかけたら湊の電話代になるじゃん』
湊は数秒黙った。
「……今後、電話で連絡を取るのはやめよう」
『えっ』
「その都度どちらが発信するかを考えるのも非効率だ。メッセージアプリを使えばいい」
『あ、それでいいじゃん。湊、入ってる?』
「入っている」
『じゃあ後で交換しよ』
なぜ最初からそうしなかったのか。湊は考えたが、言わないことにした。
「それより、今日の報告だ」
『あー……それなんだけど』
里桜の声が急に弱くなった。
『湊、ごめん』
「何をした」
『何で第一声がそれなの!?』
「君の反応から合理的に推測した」
『会社は壊してない! たぶん!』
「たぶん?」
『大丈夫! 何にも決めてないから!』
それは大丈夫と言えるのだろうか。
里桜は、午前中の役員会議からA社との会食、その後の打ち合わせまで、覚えている範囲で一日の出来事を説明した。
A社との会食については、話の内容がほとんど理解できなかったことも正直に白状した。
『でも、勝手に決めるのはまずいと思ったから、全部持ち帰った。あと……会話、録音した』
「録音?」
『ごめん。絶対ダメだと思ったんだけど、何言ってるか本当に分かんなくて。あとで湊に聞いてもらおうと思って』
「…………」
『怒った?』
「使用したのは僕のスマートフォンか」
『うん』
「なら、データを外部へ送信するな。その端末内に保存しておけ」
『分かった』
「内容は後で確認する」
『怒らないの?』
「褒められる行為ではない。だが、理解できないまま僕の名義で勝手に意思決定をされるよりは遥かにましだ」
『それは私もそう思った』
湊は小さく息を吐いた。
「こちらからも報告がある」
『何?』
「昼食代として、君のクレジットカードを使用した」
『そんなこと? いいよ、全然』
「798円だ。元に戻ったら必ず返す」
『返さなくていいって。私の身体が食べたんでしょ?』
「しかし、君のカードを無断で使用した」
『カードは使ってくれていいよ。現金なくなったら困るでしょ。最悪、あとから分割とかリボにもできるし』
リボ払いを聞いて湊が黙る。
リボ払い(リボルビング払い)とは、クレジットカードの利用金額や件数に関係なく、毎月の支払い金額をほぼ一定にする支払い方法だが、如何せん手数料が高い返済方法だ。
「佐伯、リボ払いは使うな」
『なんで今そこ怒られてんの?』
「金利負担が合理的ではない。合法的な搾取のシステムだ」
『使ってるとは言ってないじゃん! そういう方法もあるって言っただけ!』
「ならいい」
里桜が電話の向こうで何かぶつぶつ言っている。
『あと、冷蔵庫に作り置き入ってるでしょ? 私、毎週一週間分くらいまとめて作ってるの。そこにあるやつ好きに食べていいし、お弁当にも詰めて』
「……あれは君が作ったのか」
『そうだよ。できるだけ自炊してね。毎日コンビニ行かれたら、私の食費が死ぬ』
「必要経費は僕が負担する」
『そういう問題じゃないの。私の身体なんだから、いつも食べてるもの食べさせてよ』
湊は言葉を止めた。確かに、その通りだった。
『お米の炊き方、分かる?』
「…………」
『湊?』
「炊飯器の操作程度なら理解できる」
『その間なに?』
「何でもない」
『分かんないなら説明するけど』
「必要ない」
少し食い気味に答えると、里桜が笑った。
自分の声で笑われるという奇妙な感覚にも、朝よりは少し慣れてきた。
『ねえ、湊。今日さ、すごい店でご飯食べたんだよ』
「A社との会食なら、そうだろうな」
『料理もすっごい豪華だった。でも、全然味分かんなかった』
里桜の声から、さっきまでのふざけた調子が少しだけ消えた。
『湊はさ、いつも豪華なもの食べてるけど、美味しいって思ったことある?』
湊は答えなかった。記憶を探しても、すぐに答えが出てこなかった。
会食で覚えているのは、相手が何を言ったか、何を要求したか、こちらが何を提示し、何を得たか。
料理について聞かれれば店名や価格帯程度なら答えられるが、何が美味しかったかと問われると、記憶が曖昧だった。
「……考えたことがない」
『え?』
「食事は必要な栄養を摂取するためのものだ。会食であれば、それに加えて仕事上の目的がある」
『そっか』
それだけ言って、里桜は少し黙った。
『まあいいや。とりあえず冷蔵庫のやつ食べてみてよ。口に合わなかったら無理しなくていいから』
「ああ」
『じゃ、一回切るよ。お風呂も入らなきゃだし』
「そうだな」
『またね、湊』
通話が切れた。
部屋が静かになる。
湊はしばらくスマートフォンの画面を見ていたが、やがて立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
中には、透明な保存容器がいくつも整然と並んでいる。
煮物、野菜の和え物、肉料理。どれも特別な料理には見えない。
そのうちのいくつかを取り出して温め、里桜に言われた通り米を炊いた。
炊飯器については、説明を聞くほどのものではなかった。少なくとも、そういうことにしておく。
炊き上がった米と温めた料理をテーブルに並べ、箸を取る。
一口食べる。
「…………」
もう一口。
気づけば、箸がどんどん進んでいた。
高級ホテルの料理のように、希少な食材が使われているわけでもない。盛り付けが美しいわけでもない。
ただ、温かい。
そして、この部屋に残る柑橘系の中に僅かな甘さが混じった香りと、不思議なほどよく馴染んだ。
湊はもう一口食べる。
「…………悪くない」




