第十一話:今日一日で最も困難な任務
食事を終えた里桜は、満足げに腹をさすりながら浴室へ向かった。
湊の家の浴室は、やはり広かった。余計なものは一切置かれておらず、ホテルのように整然としている。
「お風呂まで広いとか、ほんと腹立つな」
服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
ボディソープを手に取って泡立てると、爽やかな香りが立った。
「なにこれ、めっちゃいい匂いするじゃん!」
ボトルをひっくり返して眺め、隣に並んでいる洗顔料やスキンケア用品にも目を向ける。見慣れないブランド名ばかりだった。
「おわっ、ドクターズコスメじゃん。これ絶対高いやつでしょ」
化粧水、美容液、クリーム。
どれも里桜が普段使っているノーマーク化粧品とは明らかに雰囲気が違う。里桜の化粧水と乳液は、それぞれ千円もしない。
対してこちらは、容器からして妙に重厚だった。
「顔一個しかないのに、何種類塗るんだよ」
文句を言いながらも、興味津々で眺める。
シャワーを浴びながら腕に力を入れてみると、筋肉がはっきりと盛り上がった。
「おおー」
反対側もやってみる。
「すご。ちゃんと出る」
今度は腹に力を入れる。
鏡の中に、綺麗に割れた腹筋が浮かび上がった。
「いや、これ反則でしょ」
里桜は拳を握り、自分のものではない腹筋を軽く殴ってみた。
「硬っ!」
もう一度。
「ほんとに筋肉なんだ」
当然である。高橋湊の身体を何だと思っているのか。
里桜は楽しそうに腹筋を眺めながら、さらにその下に視線を落とす。
ふと別の疑問を抱いた。
「男の人って、一人でする時どうするんだろ……」
一瞬考える。
「…………まあ、いっか」
知らなくても今のところ困らない。
それよりも、朝からこの身体で過ごしていて何となく思っていたことがある。
「湊って……下半身も結構でかそうだよな。」
(…………これ以上この件について考えるのは、やめよう)
浴室を見回すが、このマンションには高級なものしかない。
家具も、家電も、食器も、スキンケア用品も、何もかもが上質で隙がない。
しかし、女物が一つもない。
洗面台にも浴室にも、女性が使いそうなものは見当たらない。
寝室にもリビングにも、誰かと暮らしている気配どころか、誰かが頻繁に泊まりに来ているような形跡すらなかった。
「…………あれ?」
里桜は鏡を見る。
黒髪。整った顔。長身。広い肩。鍛えられた身体。
金もある。社会的地位もある。
少々どころではなく面倒くさい性格ではあるが、それを差し引いても条件だけなら相当なものだ。
「こんな腹筋バキバキのイケメンのくせに、彼女いないの?」
今日一番の謎が、そこに誕生した。
◇◇◇
同じ頃。
湊は、浴室の前で完全に停止していた。
「…………」
入らなければならない。それは分かっている。
朝から満員電車に乗り、八時間以上も過酷な環境で勤務した。まして今は生理中だ。
衛生面を考慮すれば、入浴しないという選択肢はあり得ない。
問題は、そこではなかった。
湊は自分の身体を見下ろした。
正確には、佐伯里桜の身体を。
「…………」
服を脱ぐ必要がある。風呂とはそういうものだ。
だが、これは自分の身体ではない。
本人の許可なく、この女の裸を視界に入れてもいいのか。いや、そもそも裸にしていいのか。
しかし、服を着たままシャワーを浴びるわけにもいかない。
湊の脳内で、倫理と衛生が正面衝突を起こしていた。
「……避けては通れないタスクだ」
誰に言うでもなく呟く。
服を脱ぎ、極力視線を逸らしながら浴室へ入った。
そして、すぐに新たな問題に直面した。
身体を洗わなければならない。当たり前である。
だが、洗うということは、この身体の肌に直接触れるということでもある。
湊は黙って自分の胸元を見る。
「…………」
朝、ブラジャーを着けるだけでも相当な精神力を消費した。
その原因となった部位は、今も変わらずそこにある。むしろ、何の布も介していない分、状況は著しく悪化している。
「……これは衛生管理だ」
自分に言い聞かせた。
必要な行為である。他意はない。
これは入浴であり、身体の所有者に健康かつ清潔な状態で返却するために必要な、義務的なメンテナンスである。
そう定義した。
そう定義しなければ、正気を保っていられない。
湊は可能な限り余計な思考を排除し、機械的に身体を洗った。
見る必要のないところは見ない。触れる必要のないところには、必要以上に触れない。指定された範囲だけを、迅速かつ確実に処理する。
仕事なら、もっと困難な案件をいくらでも処理してきた。
数十億円規模の買収交渉も経験し、経営危機に陥った企業の再建にも関わった。
だが、なぜ今、自分はシャワーを浴びるというだけの行為で、これほどまでに追い詰められているのだ。
数分後。
ようやくシャワーを止めた湊は、深く息を吐いた。
朝から何度目か分からない深刻な疲労感が全身を襲う。
それでも、終わった。
無事に。必要な工程はすべて完了した。
湊はタオルを手に取り、虚空を見つめながら小さく呟いた。
「…………ミッション・コンプリート」
今日一日で最も困難な任務が、ようやく終了した。




