第十二話:高級フレンチよりマックが食べたい
翌朝。
里桜の部屋で目を覚ました湊は、昨日ほどの深刻な混乱もなく身体を起こした。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡に映っているのは、今日も佐伯里桜だった。
「…………」
やはり違和感はある。
だが、昨日ほど絶望的ではない。
人間とは恐ろしいもので、どれほど異常な状況でも二日目ともなれば、脳の順応システムが作動するらしい。
朝食を済ませ、出勤の準備をする。
冷蔵庫を開けると、昨夜食べた作り置きが目に入った。
里桜の指示通り、その中からいくつかを取り出し、弁当箱に詰めていく。
煮物、野菜の和え物、肉料理。
冷蔵庫には、ほかにも数日分の料理が残っている。
休日にまとめて作り、平日の昼食にも夕食にも使う。
コンビニの弁当を高いと言い、昼食に七百円を使うことすら惜しむ。
(……徹底したコスト管理だな)
それだけ思って、蓋を閉めた。
昨日、自分が珍しく箸を止めることなく食べ続けた事実については、深く分析しないでおくことにした。
◇◇◇
一方。
高橋湊として二度目の朝を迎えた里桜も、昨日よりはずっと落ち着いていた。
スーツ選びにも多少慣れた。ネクタイにはまだ苦戦するものの、昨日ほど時間はかからない。
迎えに来た山田にも普通に挨拶し、車に乗り込む。
会社に着けば社員たちから一斉に頭を下げられる光景にも、ほんの少しだけ慣れてきた。
役員から報告を受けても、昨日のようにすべての単語に怯えることはない。
分からなければ聞く。それでも分からなければ神崎を見る。重要なことは勝手に決めない。
昨日一日で、里桜なりの生存戦略は確立されつつあった。
ただし、一つだけ、昨日より明確に恐ろしくなったものがある。
「本日十二時半より、先方役員との会食です」
神崎の口からその言葉が出た瞬間、里桜の顔が固まった。
「…………また?」
神崎が僅かに眉を動かした。
「はい。スケジュールにも記載しておりますが」
「そうだったな」
高橋湊らしく答えながら、里桜は机の下で拳を握った。
(また会食ぅぅぅ!?)
昨日までは、高級ホテルで仕事相手と食事をするなど、自分とは無縁の世界だった。
最初は少し楽しみですらあった。実際に出てきた料理も豪華だった。
ところが、何を食べたのかほとんど覚えていない。
料理を口に運んでいる最中にも、相手からは市場だの投資だの収益率だの、意味の分からない言葉が次々飛んでくる。一言間違えれば会社の判断になると思えば、味など分かるはずもなかった。
そして今日もまた、高そうな皿の上に綺麗に盛り付けられた料理を前に、里桜は必死に笑顔を貼り付けていた。
「今後の市場環境を踏まえますと、来期以降はより戦略的な資本配分が必要になるかと」
「……そうですね」
分からない。
「特に既存事業とのシナジーをどの段階で最大化するかという点については」
「ええ」
またシナジー。昨日調べたはずなのに、もう意味が怪しい。
里桜は料理を一口食べた。
昨日よりは味がする気がするが、やはり何を食べているのかよく分からない。
(もうやだ……)
頭の中に、突然まったく別の食べ物が浮かんだ。
ハンバーガー。山盛りのポテト。ナゲット。炭酸飲料。
(マック食べたい……!)
高級フレンチを前にしているというのに、今は猛烈にジャンクフードを爆食したい衝動が沸く。
何も考えず、ポテトを口いっぱいに詰め込みたい。収益率について聞かれることもなく、ナゲットにソースをつけたい。シナジーの意味を考えることなく、ハンバーガーを二個くらい食べたい。
向かいの役員が話している最中、里桜は真剣な顔で頷いた。
その完璧な容姿の頭の中を、巨大なフライドポテトが完全に占拠していることなど、誰も知る由はなかった。
◇◇◇
どうにか会食を乗り越え、会社へ戻った里桜は、化粧室の鏡に映る自分の顔を見つめた。
いや、自分ではない。湊の顔だ。相変わらず整っている。昨日と変わらず、髪もちゃんとある。
里桜は前髪を両手で掻き上げ、生え際を確認した。
「ハゲそう!」
今のところ大丈夫だ。
しかし、この過大なストレス環境を毎日続けていたら、いずれ毛根が死滅する。
「湊、ごめん。イケメンなのにハゲちゃうよ!」
本人が聞いたら激怒しそうな謝罪を鏡に向かって済ませ、里桜はスマートフォンを取り出した。
昨日交換したメッセージアプリを開く。
少し考えて、送信した。
『私ハゲそう……』
数分後。既読がついた。
返信はない。
「…………」
里桜は画面を見つめる。
「既読スルーかよ」
◇◇◇
その頃。
コールセンターの休憩室でメッセージを確認した湊は、無言でスマートフォンを伏せていた。
『私ハゲそう……』
意味が分からない。
何をどう返せというのだ。生理現象への懸念か? それとも精神的疲労の比喩表現か?
おそらく今日も何かあったのだろうが、少なくとも緊急事態ではない。
ならば、勤務中に返信する合理的な必要性はない。そう判断した。
昼休憩には、朝、自分で詰めてきた弁当を食べた。
昨日と同じ作り置き。
だが、悪くない。
冷めても味が極端に落ちることはなく、昼食のタスクとしては十分すぎる品質だった。
湊は黙々と箸を進める。
気づけば、今日もタッパーの底が綺麗に見えていた。
「……悪くない」




