第十三話:この感情の定義は、なんだ?
二日目の勤務を終え、里桜と入れ替わっている高橋湊は、里桜のマンションへ帰った。
昨日ほど疲弊してはいない。
コールセンターの業務にも多少は慣れ、昨日聞いた里桜自身の通話記録(アプローチ手法)を分析・模倣することで、少しずつ対応できるようになっていた。
玄関を開ける。
今日も、あの香りがした。
柑橘系の爽やかさの中に、ほんの僅かな甘さが残る香り。
昨日より意識することもなく、その香りを受け入れている自分がいた。
鞄を置き、スマートフォンをテーブルの上に置こうとした時だった。
画面が光った。
ロック画面には、昼間に届いた通知がまだ残っている。
『高橋湊:私ハゲそう……』
自分の名前から届いた、意味不明なメッセージ。湊はそれを一瞥し、その下に新しく表示された通知へ視線を移した。
知らない名前だった。
『マサト:里桜、この前はごめん。俺らまたやり直せないかな?』
「…………」
湊の動きが完全に停止した。
(……マサト、誰だ)
しかし、通知に表示された短いテキストデータだけで、二人がどういう関係だったのかはある程度推測できる。
『この前はごめん』
そして。
『またやり直せないかな?』
湊は画面を見つめた。
個人的な情報は見ない。それは初日に二人で交わしたアグリーメント(合意事項)だ。
通知として偶然目に入ったものは仕方がない。
だが、ここから先、アプリを開いて内容を確認することは明確なコンプライアンス違反になる。
だから、開かない。それでいい。自分には関係のないことだ。
佐伯が誰と付き合っていたのか。なぜ別れたのか。この男が何を謝っているのか。そして、佐伯がこの連絡にどう答えるのか。
すべて、自分には関係がない。
「…………」
そう論理的な結論を導き出したはずだ。
だが、なぜか、スマートフォンをテーブルに置くことができなかった。
胸の奥に、得体の知れない鉛のようなものが沈んでいる。
不快だった。
だが、何に対して不快なのかが分からない。
見知らぬ男が佐伯に接触してきたことか。
その男が、彼女を馴れ馴れしく名前で呼んでいることか。
それとも、二人がかつて、自分の知らない関係にあったという事実か。
どれも、自分には関係がない。そのはずだった。
画面が消える。
湊は無意識のうちに親指で画面に触れ、再び点灯させた。
もう一度、通知を見る。
『マサト:里桜、この前はごめん。俺らまたやり直せないかな?』
胸の奥に沈んだ異物は消えない。
むしろ意識すればするほど、黒く、重く、質量を増していく。
湊は不機嫌に眉を寄せた。
(…………この感情の定義は、なんだ?)
その時。手の中のスマートフォンが震えた。
着信。
画面には、先ほどと同じ名前が表示されている。
――マサト。
湊は出なかった。
当然だ。これは佐伯の端末であり、佐伯宛ての電話だ。自分に応答する権限はない。
呼び出しはしばらく続き、やがて切れた。
数秒後。再び、震える。
――マサト。
「…………」
湊は無言で画面を見つめる。二度目の着信も切れた。
そして、ほどなくして三度目。
――マサト。
湊の眉間に、深い皺が刻まれた。
これほどの連続着信。相手の執着心と、論理的思考の欠如が明白に見て取れる。
出るつもりはない。メッセージを開くつもりもない。
それなのに、湊はスマートフォンを置くことができなかった。
三度目の着信が途切れ、部屋に静寂が戻る。
湊はスマートフォンを強く握ったまま、消えた真っ黒な画面を、親の仇のように睨みつけていた。




