第十四話:なぜ、君と話すと落ち着く?
湊はスマートフォンを強く握ったまま、消えた真っ黒な画面を、親の仇のように睨みつけていた。
その時だった。
再び、手の中のスマートフォンが震えた。
「…………またか」
湊の眉間の皺がさらに深くなる。
しかし、画面に表示された名前を見た瞬間、その表情が僅かに変わった。
『高橋湊』
自分の名前だった。マサトではない。
里桜だ。
湊は一拍置いてから通話ボタンを押した。
「……何だ」
『何だ、じゃないよ。電話出るの早っ』
聞き慣れた自分の声が耳に届く。昨日までは違和感しかなかったはずの声だった。
それなのに、なぜか今は、その声を聞いた瞬間に胸の奥に沈んでいた重いものが僅かに薄れた気がした。
「用件は何だ」
『冷たっ。昨日より電話対応うまくなった?』
「昨日、君の通話記録を分析した。ある程度、対応パターンは把握した」
『通話記録を分析って……怖いんだけど』
「聞くのが一番早いだろう」
『そうだけどさ。で、どうだった? 私、電話うまかった?』
「……悪くない」
『なんだそれ!』
里桜の声が大きくなる。
『じゃあ今日のお弁当は?』
湊は黙った。
昼に食べた弁当を思い出す。冷めた煮物も、肉料理も、味は悪くなかった。
むしろ。
「……悪くなかった」
『ん?悪くないって誉め言葉か!』
電話の向こうで里桜が笑った。
『絶対おいしかったやつじゃん、それ』
「勝手に解釈するな」
『完食した?』
「…………した」
『ほら!素直じゃないなぁ~ふふっ』
また笑う。
なぜ、それほど嬉しそうなのか分からない。
自分の作った料理を他人が食べただけだ。
それも、今食べているのは里桜自身の身体なのだから、厳密には他人が食べたと表現していいのかすら怪しい。
それでも、耳元で笑う声を聞いていると、不思議と嫌ではなかった。
「それより、そちらの業務はどうだった」
気づけば、湊の方から話題を振っていた。
『私?』
「ああ。今日の仕事だ」
『聞いてよ! また会食だったんだよ!』
突然、里桜の声に勢いが戻った。
『もうほんっと無理! 高そうなフレンチ食べながらシナジーとか資本配分とか言われるんだよ!? ご飯くらい普通に食べさせてよ!』
「会食とはそういうものだ」
『湊、毎日あんなのやってんの?』
「毎日ではない。多い時は四、五回程度だ」
『ハゲるって!』
「…………」
『だから昼に送ったじゃん。私ハゲそうって』
「意味が分からなかった」
『分かるでしょ! ストレスで湊の毛根が死にそうって意味だよ!』
「二日程度で毛根が死滅するほど人体は脆弱ではない」
『そういう話じゃない!』
里桜が笑う。
湊はソファに腰を下ろした。
いつの間にか、先ほどまで立ったまま握り締めていたスマートフォンを、自然に耳へ当てている。
『しかもさぁ、高級フレンチ食べながら、ずっとマックのこと考えてた』
「なぜだ」
『分かんない。ポテト食べたくて仕方なくなった』
「目の前に食事があるだろう」
『あれはご飯じゃない。仕事』
湊の動きが止まった。
昨日、里桜に聞かれた言葉を思い出した。
――湊はさ、いつも豪華なもの食べてるけど、美味しいって思ったことある?
そして、自分は答えた。
食事は必要な栄養を摂取するためのものだ。会食であれば、それに加えて仕事上の目的がある。
「…………」
『どうしたの?』
「いや」
『だから今、めっちゃマック食べたい』
「なぜ食事の内容まで僕の決裁を仰ぐ」
『だって勝手にジャンクフード爆食したら怒りそうじゃん』
「程度による」
『じゃあポテトLは?』
「好きにしろ」
『ナゲット十五個』
「多い」
『バーガー二個』
「オーバーカロリーだ。却下する」
『ほら怒るじゃん!』
また笑い声が聞こえた。
湊は小さく息を吐いた。
いつの間にか、身体から余計な力が抜けていた。
つい数分前まで胸の奥にあった、あの得体の知れない不快感も薄れている。
理由は分からない。
仕事を終えて帰宅し、緊張状態から解放されたためか。
あるいは、くだらない会話によって意識が逸れただけなのか。
湊はそう分析した。
『あ、そうだ』
「何だ」
『なんか変な連絡来てなかった?』
心臓が、一度だけ強く打った。
湊の表情から、先ほどまでの僅かな緩みが消えた。
「…………」
『湊?』
聞けばいい。
マサトとは誰だ。あの男は、君とどういう関係なんだ。なぜ謝っている。
なぜ、やり直したいと言っている。
三回も電話をかけてくるほど、何の話がある。
聞こうと思えば、いくらでも聞ける。
しかし。
「……マサトと名乗る人物から、メッセージが一件入っていた」
『あー……』
里桜の声が少しだけ変わった。
湊はその変化を聞き逃さなかった。
「その後、三回着信があった」
『三回も?』
「ああ」
『うわぁ……』
それだけだった。
里桜は、マサトが誰なのか説明しない。
湊も、聞かなかった。
いや。聞けなかった。
初日に決めたルールがある。互いの個人的な情報には立ち入らない。
それ以前に、聞く合理的な理由がない。マサトが誰であろうと、自分には関係のないことだ。
「メッセージの内容は、ロック画面に表示されていたため不可抗力で確認した。アプリは開いていない」
『あ、全然いいよ。通知は仕方ないし』
「そうか」
『電話も出てないんでしょ?』
「ああ」
『じゃあ大丈夫。ありがと』
「…………」
大丈夫。
何が大丈夫なのか。
なぜ三度も電話をかけてきた男に対して、それだけで済ませられるのか。
聞きたいことはいくつも浮かんだ。
だが、そのどれも口には出せなかった。
『じゃあ、お風呂入ってくるね』
「分かった」
『あ、湊』
「何だ」
『お弁当、明日も持っていっていいからね』
「……必要であればそうする」
『はいはい。悪くない、だもんね』
「…………」
電話の向こうで、また里桜が笑った。
『じゃ、おやすみ』
「ああ。おやすみ」
通話が切れた。
静かになった部屋で、湊はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。
やがて画面を見る。
通話終了。そこにはもう、里桜の声はない。
先ほどまで胸の奥を占めていた黒く重い感情は、完全に消えたわけではなかった。
マサト。その名前を思い出せば、やはり不快だった。理由は分からない。
だが、それとは別に、電話が終わった途端、部屋が妙に静かになったように感じた。
この部屋は、最初から静かだったはずなのに。
湊はスマートフォンをテーブルに置く。
今度は、すぐに手を離すことができた。
「…………」
里桜と話したことで気が紛れた。それだけだ。
そう結論づけ、湊は立ち上がった。
自分がいつの間にか彼女との取り留めのない会話に居心地の良さを覚え始めていることには、まだ気づいていなかった。




