第十五話:そりゃ、そうだよね
翌朝。
高橋湊として三日目の出勤を迎えた里桜は、昨日までより随分と自然に社長室のエグゼクティブチェアへ座っていた。
相変わらず資料に並ぶ数字は多いし、知らない言葉も次々出てくる。
それでも、分からなければ神崎に聞けばいい。重要なことは勝手に決めない。
三日目ともなれば、それなりに要領も分かってくる。
人間の適応能力とは、なかなか侮れないものだ。
「高橋社長」
「ん?」
資料から顔を上げる。神崎が立っていた。
いつも通り隙のないスーツ姿。表情もいつもと変わらない。
ただし、そのジャケットの内ポケットには、今朝から強力な胃薬が忍ばせてある。
ここ数日の高橋湊の異変のせいか、神崎の胃壁には、着実に深刻なダメージが蓄積されていた。
「少々、プライベートなお話がございます」
「プライベート?」
「はい」
神崎は一枚の封筒をデスクの上へ置いた。
「縁談の申し出がございました」
「…………縁談?」
里桜は瞬きをした。
よりによってなぜ今?なぜ私が高橋湊になっている、このタイミングで。
「社長も今年で三十三歳になられます。今回のお相手は財閥本家のご令嬢でございまして、先方から、ビジネスにおいてもプライベートにおいても強固な関係を築きたいとの申し出がございました」
神崎は淡々と説明を続ける。
「先方との関係強化は、今後の当社の発展においても極めて強力なカードになるかと存じます」
(重っ!)
ただのお見合いではない。結婚に会社の将来まで乗っかっている。
昨日までなら、そんな話を聞いた瞬間に「無理!」と叫びたくなっていたところだ。
だが、里桜はデスクの上の封筒を見た。
(湊は、どう思うのだろう)
この相手と会ってみたいと思うのだろうか。それとも、すでに知っている女性なのだろうか。
(……湊は、この人のこと好きなのかな)
ふと、そんなことを考えた。
自分が決めていいことではない。
「……少し、考えさせてくれ」
神崎の動きがピタリと止まった。
眼鏡の奥の目が、僅かに見開かれている。
「……承知いたしました」
神崎は眼鏡のブリッジを、くいっと押し上げた。
今年に入って、二十一件目。
これまでにも、政財界の有力者や大企業の創業家から、高橋湊への縁談は何度も持ち込まれている。
しかし、そのすべてを湊は即答で断ってきた。写真を見ることすらほとんどなかった。
『必要ない』
それだけだった。
結婚による人的ネットワークの強化も、資本関係への波及も、本人にとっては検討材料にすらならないらしい。
その高橋湊が、初めて「考えさせてくれ」と言った。
神崎は目の前の社長を見つめた。
(…………)
ここ数日の異変を考えれば、何か心境の変化があったとしても不思議ではない。
あるいは、ついに結婚というものを現実的に検討する気になったのかもしれない。
だが、神崎は、一昨日の役員会議を思い出した。
晴天でグッド。副交感神経。アルファ波。ガンガン行くぜ。
(…………いや)
期待してはいけない。
(今の社長は、少し頭が弱い)
神崎は、極めて冷静にそう結論づけた。
(これを機に、外堀りを埋めておくべきか)
「では、資料はこちらに置いておきます」
「ああ」
神崎が社長室を出ていく。扉が閉まるのを確認してから、里桜はすぐに封筒へ手を伸ばした。
「…………」
中には、相手のプロフィールと写真が入っていた。里桜は写真を見る。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
綺麗な人だった。
整った顔立ちに、長い髪。
派手ではないのに、身につけているものも、姿勢も、表情も、何もかもに品がある。写真一枚でも分かる。育ってきた世界が違う。
里桜はプロフィールへ視線を落とした。
家柄。学歴。経歴。どこを見ても、自分とはまるで違う。
もう一度、写真を見る。
高橋湊の隣に、この女性が立っている姿を想像してみた。
悔しいほど、お似合いだ。たぶん、誰が見てもそう思うだろう。
「…………」
昨日、湊の浴室で考えたことを思い出した。
あれだけ顔が良くて。背が高くて、身体も鍛えていて、お金もあって、会社の社長で。
性格はかなり面倒くさいが、それを差し引いたとしても、条件だけなら相当な男だ。
彼女がいないことを、不思議に思った。
しかし考えてみれば、当然なのかもしれない。
湊が誰かと結婚するとしたら、きっと、こういう人なのだろう。
里桜は写真を見つめた。
「……そりゃ、そうだよね」
自分とは違う。
自分は契約社員で、七百円の昼食を高いと思って、休日に作り置きをして、化粧水だって千円もしないものを使っている。
一方で湊は、運転手付きの車で会社へ行き、高級ホテルで会食をし、何十億という金額の話をする。
本来なら出会うはずのない人だった。
身体が入れ替わるなんていう、意味の分からない出来事さえ起きなければ、きっと一生、言葉を交わすことすらなかった。
「…………」
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
なぜなのかは、分からない。
里桜は写真を封筒へ戻した。
そして、自分のスマートフォン。
今は湊が持っている端末ではなく、高橋湊のスマートフォンを手に取る。
メッセージアプリを開いた。昨日までのやり取りが表示される。
『私ハゲそう……』
その下には、湊からの返信はない。
「ほんと既読スルーしやがって……」
小さく文句を言いながら、新しいメッセージを打つ。
一度、指が止まった。それから送信する。
『湊、お見合いの話来てるよ』
送信済みの文字を見つめる。
いつもなら、既読がつこうが、返事がいつ来ようが、そんなことを気にしたことはなかった。
なのに……
(早く)
画面を見つめたまま、里桜はスマートフォンを握り直す。
(少しでも早く、湊から返事が欲しい)
断るのか、会ってみたいと言うのか。
この縁談を受けるのか。
どんな返事が来るのかを考えるだけで、胸の奥が落ち着かない。
(…………何なんだろう、この気持ち)
里桜はまだ知らない。
返事が欲しいのではない。
自分が待っているのは、その答えの中でも、たった一つだけなのだということを。




