第十六話:警戒レベルを引き上げる
水曜日。
昼休憩に入った里桜は、今日何度目か分からないスマートフォンの確認をしていた。
『湊、お見合いの話来てるよ』
既読。
返事はない。
「…………」
里桜は無言で画面を閉じた。
五分後。もう一度開いた。
当然、何も増えていない。
「いや、既読ついてんじゃん」
思わず小声で文句が漏れる。
別に、急かしているわけではない。
湊自身の結婚に関わる話なのだから、考える時間が必要なのかもしれない。
むしろ、昨日までの湊なら即答で断っていたという神崎の話を考えれば、慎重になるのは当然なのかもしれない。
そう思う、思うのだが。
(……何か返してくれてもよくない?)
『確認した』でもいい。『後で話す』でもいい。それすらない。
里桜はスマートフォンをデスクに伏せた。
「…………ほんっと、そういうとこだぞ」
◇◇◇
その頃。
コールセンターの休憩室で、湊は里桜から届いたメッセージを確認していた。
『湊、お見合いの話来てるよ』
内容は理解している。返信していないことも認識している。
だが、湊にとって、それは『既読無視』という認識ではなかった。
どうせ今夜、電話をする。
縁談の詳細を確認する必要があるし、メッセージで断片的にやり取りするより、通話でまとめて報告・協議した方が効率がいい。
ならば、今ここでテキストを返信する必要性はない。
タスクの優先順位と情報の正確性を考慮した結果である。
極めて合理的な判断だった。少なくとも、高橋湊の中では。
◇◇◇
勤務を終え、湊が里桜のマンションへ戻った頃には、すでに日が暮れていた。
今日も疲れた。
だが、初日ほどではない。
三日目ともなれば、コールセンターの業務にも少しずつ慣れてきた。
里桜の通話記録から抽出した応対ロジックも、徐々に自分の中へ落とし込めている。
帰ったら食事をして、それから佐伯に電話をしよう。縁談の話も聞かなければならない。
そう考えながら廊下を歩き、自室の前まで来たところで。
湊は足を止めた。
「…………」
誰かいる。
里桜の部屋の前に、一人の女性が立っていた。
派手な服装だった。
年齢は、四十代前後だろうか。
髪も化粧も過剰なほど綺麗に作り込まれており、実年齢より若く見せようとする意図が明白に読み取れる。
湊が近づくと、女性がこちらに気づいた。
ぱっと表情が明るくなる。
彼女は甘ったるい声と笑顔で湊を迎える。
「里桜、おかえりぃ。待ってたよ」
「…………」
知り合いらしい。当然ながら、湊には誰なのか分からない。
だが、顔立ちの造作を瞬時に分析する。
目元。鼻筋。口元。
完全に似ているわけではない。しかし、どことなく里桜の面影がある。
(……母親か?)
そう推測した直後だった。
「ねぇ、里桜」
女性が甘えるように首を傾げる。
ふわりと、鼻をつくような強い香水の匂いが漂った。
「ママ今、ちょっと困ってるんだ。助けてくれない?」
(やはり母親か)
推測は当たっていた。
だが、困っている。
その言葉だけでは情報が決定的に不足している。何に困っているのか。
なぜ娘の自宅まで直接来る必要があったのか。
そして、なぜ事前に連絡をしていないのか。
確認すべき点はいくつかある。
湊は玄関の鍵を開けた。
母親が困って訪ねてきたのであれば、とりあえず家に入れて事情を聴取する。
一般的な血縁関係のプロトコルに照らし合わせれば、それが最も自然な対応だろう。
「……とりあえず、中へ」
「え?」
女性が目を丸くした。
その反応に、湊の手が止まる。
「…………何だ?」
「ううん!」
女性はひどく嬉しそうに笑うと、湊の横をすり抜けて玄関へ入った。
「里桜、珍しいね。今日は家に入れてくれるんだね。ママ嬉しい!」
「…………」
湊は玄関のドアを閉めた。
そして、無言で母親の背中を見る。
(……まずい)
今の一言から、極めて重要な情報がアップデートされた。
普段の佐伯は、この女性を家に入れていない。
つまり、自分は情報不足により、里桜が意図的に設定していた『アクセス権限(境界線)』を、無断で解除してしまったということだ。
湊の中で、目の前の女に対する警戒レベルが一段階引き上げられた。
――いや。二段階だ。




