第十七話:「まあ、いっか」の理由
その頃。
里桜は社長室のデスクで、今日何度目か分からないスマートフォンの画面を確認していた。
『湊、お見合いの話来てるよ』
既読。
返事はない。
「…………」
終業時間は、とっくに過ぎている。
昼間ならまだ分かる。
コールセンターの勤務中なのだから、返信する余裕がないのだろうと思っていた。
けれど、もう仕事は終わっているはずだ。
それなのに、返信はない。
向こうから連絡が来る気配もない。
(……考えてるのかな)
その可能性が頭をよぎるたび、胸の奥がざわつく。
会ってみようと思っているのかもしれない、あの写真の女性と。
綺麗で、品があって、家柄も申し分なくて。
湊の隣に並んでも、何ひとつ違和感のない女性と。
「…………」
里桜はスマートフォンを伏せた。
欲しいのは、ただの返事ではなかった。
この落ち着かない気持ちを消してくれるような、安心できる何かが欲しかった。
けれど、それがどんな言葉なのか、自分でもまだ、分かっていなかった。
◇◇◇
その頃、里桜が待ち続けている男、高橋湊。
彼女の母親を名乗る、明らかにリスクの高い人物と対峙していた。
スマートフォンを見る余裕などない。
正確には、目の前の人物に一切の隙を見せるべきではないと判断していた。
湊はダイニングテーブルの向かいに座る女性を、静かに観察していた。
里桜の母親。
血縁関係にあることは、おそらく間違いない。
しかし。
『今日は家に入れてくれるんだね』
先ほどの一言が、頭から離れない。
母親であるにもかかわらず、里桜はこの女性を自宅へ入れてこなかった。
そこには必ず合理的な理由がある。
湊の中で、警戒レベルは依然として高いままだった。
「ねぇ、里桜」
母親が、ピンクのルージュが塗られた唇に人差し指をあてながら言った。
「ママ、お金なくてさぁ。十万くらい貸してくれない?」
「…………」
予想していたよりも、随分と直接的で分かりやすい要求だった。
「無理だ」
「えぇ?」
「原資がない」
湊は里桜の財布を取り出した。
紙幣は千円札が一枚、あとは小銭。それを開いて見せた。
「現在の手持ちは、これだけだ」
「あはは。里桜ってば、相変わらずだねぇ」
母親は笑った。
そして、まるで何でもないことのように続けた。
「でも、免許証持ってるでしょ?」
「…………?」
「今、手持ちがなくても借りられるよねぇ?」
湊の目が細くなる。母親は笑顔のままだった。
「この前みたいにさ」
「…………」
一瞬。言葉の意味を理解するまでにコンマ数秒のラグが生じた。
理解できなかったのではない。
理解した内容が、高橋湊の持つ倫理と常識からあまりにも逸脱していたからだ。
「……今、なんと言った」
声が低くなる。里桜の身体から出ているとは思えないほど、絶対零度に冷え切った声だった。
「え?」
「娘の名義で、金融機関から借入をさせたということか」
母親の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
湊の頭の中で、これまでのいくつもの情報が線として繋がっていく。
七百円の昼食を高いと言う。
休日に何日分もの料理を作り置きする。
数分の通話料も勿体ないと話す。
それでも里桜は、笑っていた。
『毎日コンビニ行かれたら、私の食費が死ぬ』
冗談のように、軽く、彼女は言ったのだ。
「…………」
単なる倹約家だと思っていた。
だが、それだけではないのだとしたら……
「あれ? 里桜、まだ怒ってる?」
母親は不思議そうに首を傾げた。
「マサト君のことで」
「…………マサト?」
昨日。何度も里桜のスマートフォンに表示された名前。
『里桜、この前はごめん。俺らまたやり直せないかな?』
三度の着信。胸の奥に、あの不快な感覚が蘇る。
母親は気づかない。
「あ、でも安心して。ママ、もうマサト君とは何もないしさ」
「…………」
何もない。
その言葉が何を意味しているのか。推測する必要すらなかった。
「でも、あの子ホント、ウブねぇ」
母親が楽しそうに笑う。
「里桜の歴代の彼の中で、一番真面目でウブだったわ。ふふ」
ぞくり、と。
湊の背筋に悪寒が走った。
昨日、マサトという男から連絡が来た時とは違う。
嫉妬でも、不快感でもない。
もっと根源的な、生理的な嫌悪だった。
目の前にいる女性を見る。
娘に金を要求する。手持ちがなければ、借金をさせる。
そして、娘が付き合っていた男にまで手を出す。
それを悪びれもせず、笑って話す。
実の母親が?自分の娘に。
「…………」
湊は、何も言わなかった。
そして、この三日間で見てきた、佐伯里桜という人間を思い出していた。
理不尽な客に怒鳴られても、声を荒らげない。
相手が何に怒っているのかを聞き、受け止め、それから論理を提示する。
どれだけ面倒でも。
『まあ、いっか』
そう言って笑う。
湊は、それを彼女の天性の能力なのだと思っていた。
明るく、楽天的で、物事を深刻に受け止めない図太い人間なのだと。
だが、そうではないのかもしれない。
すべてを受け流す術を身につけなければ、
この異常な女の娘として、精神を壊さずに生きてこられなかったのではないか。
湊の目から、完全に温度が消えた。




