第十八話:何でもない
「お引き取りください」
湊は玄関の扉を開けた。
声は静かだった。怒鳴ってはいない。表情も完全に抜け落ちている。
それでも、先ほどまで笑っていた里桜の母親は、明らかな悪寒を感じて顔を引きつらせていた。
「なに、里桜。急に怖いんだけど」
「今後、佐伯里桜に一切の金銭を要求しないでください」
「は?」
「借入を要求することも、保証人になるよう強要することも禁止します。自宅への訪問、勤務先への接触も即刻控えてください」
「ちょっと、何それ?親子じゃん」
「血縁関係は、他人の財産を無断で処分し、尊厳を蹂躙する免罪符にはなりません」
母親の眉が吊り上がる。
「里桜、あんた誰に向かってそんな口――」
「それから」
湊は冷徹に言葉を遮った。
「今後、本人の意思に反して接触を続けるのであれば、接近禁止命令の申立および刑事告発を含めた法的措置を即座に実行します」
「……脅してるの?」
「警告です」
湊は母親を真っ直ぐに見下ろした。絶対零度の瞳だった。
いつも柔らかい淡い茶色の瞳が、今日は黒く冷たく見える。
「次はありません」
しばらく睨み合った末、母親は「ヒッ」と短く息を呑み、逃げるように玄関を出ていった。
「ほんっと可愛くない。昔からそういうとこあるよね……っ」
捨て台詞とともに扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで、湊は動かなかった。それから鍵をかけ、チェーンまで確認する。
「…………」
静かになった部屋で、湊はすぐに里桜の鞄を手に取った。
財布。運転免許証。健康保険証。クレジットカード。キャッシュカード。
一枚ずつ確認する。
次に通帳。印鑑。その他、金融機関との契約に利用される可能性があるもの。
どこまで確認していいのかという問題はある。
個人のプライバシーは覗き見ない。それは初日に二人で決めたアグリーメントだ。
しかし、先ほどの異常な発言を聞いた以上、金品や本人確認書類が持ち出されていないかを直ちに確認する必要がある。
これはプライバシーの侵害ではない。
緊急事態における『資産保全措置』だ。
少なくとも、湊はそう論理的に結論づけた。
「…………」
引き出しを閉める。財布をもう一度確認する。
免許証はある。カードもある。現金も、先ほどと変わっていない。
湊はようやく息を吐いた。
数十億円規模の買収案件ですら、ここまで神経をすり減らした記憶はない。
他人の財布の中身を確認して、身分証明書が一枚あるだけでこれほど安堵する日が来るとは思わなかった。
その時だった。テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
湊が画面を見る。
表示されているのは、自分の名前だった。
――高橋湊。里桜からだ。
一瞬。先ほどの母親の言葉が頭をよぎる。
『マサト君のことでまだ怒ってる?』
『もうママ、マサト君とは何もないしさ』
湊は画面を見つめた。
この情報を、佐伯に共有するべきだろうか。
考えている間にも着信は続いている。湊は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もう、お見合い来てるって言ってんじゃん!』
開口一番だった。
「…………」
『既読ついてるのに、なんで何も返さないの!?』
「珍しいことではない」
『え?』
「縁談の申し出なら、以前から山ほどある」
『…………は?』
電話の向こうが静かになった。
『そんなに縁談ってあるの?』
「神崎から聞いていないのか」
『そんなこと聞いてないよ! 今回のお相手、すっごい綺麗な人だったし、財閥の本家のお嬢様だって言うし、会社にとってもメリットあるって言うから……』
里桜の声が、少しだけ小さくなる。
『……だから、湊も会ってみたいのかなって』
「なぜ?」
即答だった。
『え?』
「僕が会いたいと判断する合理的根拠が一つもない」
「…………」
『じゃあ……どうするの?』
「断れ」
また。あまりにも即答だった。
『…………断るの?』
「当然だ」
電話の向こうで、里桜が息を吐いた。ほんの僅かな音だった。
だが、今日一日、彼女がどんな思いで返信を待っていたのかを知らない湊は、その意味に気づかなかった。
「ただし」
『なに?』
「君は神崎に『考える』と言ったんだな」
『うん』
「…………」
湊は眉間を押さえた。
「ならば、明日即座に断るな」
『え!? なんで!?』
「これまで僕は、その手の縁談をすべて即答で切り捨ててきた」
『うん』
「にもかかわらず、今回に限って一晩考えた末に断れば、相手によっては『真剣に検討した』と解釈する」
『…………』
「つまり、君は僕が初めて結婚を前向きに検討したという、存在しない実績を作った」
『えええ!?』
「神崎にも余計な期待を持たせた可能性がある」
『そんなの知らないよ!』
「だから勝手に判断するなと言っただろう」
『勝手に判断してないから考えるって言ったんじゃん!』
「それによって別のバグが発生している」
『知らんがな!』
湊は額を押さえた。
「……とにかく、明日僕から適切な断り方を指示する。それまで何もするな」
『分かったよぉ……』
不満そうな声。だが先ほどまでより、明らかに軽い。
『なんで全部断ってるの?』
「必要がないからだ」
『結婚したくないってこと?』
「現時点では、費用対効果を含め必要性を感じていない」
『ふーん……』
妙に間延びした返事だった。
「何だ」
『別に』
「ならば、この話は終わりだ」
『はいはい』
そこで、湊は口を閉じた。
本来なら、次に話すべき重大なリスク情報がある。
今日、佐伯の母親が来たこと。金を要求されたこと。過去に、彼女の名義で借入をさせたらしいこと。
そして、マサトという男の真実について。
「…………佐伯」
『ん?』
言葉が止まった。
伝えるべきだ。情報共有は危機管理の基本だ。
本人の生活に関わる重大なインシデントなのだから、当然報告する義務がある。
だが、昨日、マサトから連絡が来たことを伝えた時の、里桜の僅かな声の変化を思い出す。
今日、母親が、笑いながら口にした言葉も。
”里桜の歴代の彼の中で、一番真面目でうぶだったわ”
「…………」
『湊?』
話せば、里桜は、どんな顔をするのだろう。
いつものように笑うのだろうか。
『まあ、いっか』
そう言うのだろうか。
なぜか、それだけは、絶対に聞きたくないと思った。
『どうしたの?』
「…………いや」
湊は静かに答えた。
「何でもない」
高橋湊というロジックの塊が、この三日間で初めて里桜についた、致命的で優しい嘘だった。




