第十九話:この会話に、目的はない
少しの沈黙の後、里桜が口を開く。
『ねえ、そういえばさ』
「今度は何だ」
『湊の部屋って、あんなに広いのに女っ気ゼロだよね。彼女いないの?』
湊は一瞬、黙った。
「いない」
『ほんとに?』
「なぜ疑う」
『だって三十二歳でしょ? 顔いい、背高い、お金ある、仕事できる。普通なんかあるじゃん』
「何かとは何だ」
『女』
「いない」
『言い方!ふふっ』
里桜が笑う。
「…………」
湊は僅かに眉を寄せた。
自分のこうした物言いに、笑う人間はほとんどいない。
部下なら表情を強張らせるか、余計なことを言わずに引き下がる。
取引先なら、こちらの機嫌を窺うように言葉を選ぶ。
神崎ですら、時折深いため息をつく程度だ。
だが、佐伯は違う。
素っ気なく返せば笑い、言葉が足りなければ遠慮なく突っ込み、気に入らなければ「言い方!」と返してくる。
それが、不思議だった。
そして、不快ではなかった。
むしろ、電話の向こうでまだ笑っている声を聞きながら、湊は自分の口元から僅かに力が抜けていることに気づいた。
『じゃあ最後に彼女いたのいつ?』
「答える義務はない」
『ケチ』
「個人情報だ」
『私、今その個人の身体に入ってるんだけど』
「それとこれとは別問題だ」
『はいはい。ふふっ』
また、里桜が笑った。
少し前まで、あれほど重大なリスク情報を伝えるべきか深刻に考えていたというのに。
『じゃあさ。デートするならどこ行く?』
「…………デート?」
『うん』
「目的による」
『デートに目的とかないでしょ』
「あるだろう。互いの限られたリソース(時間)を消費する以上、何らかの目的が設定されるはずだ。食事なのか、映画なのか、何かを見に行くのかで――」
『そういうことじゃないの』
里桜が呆れた声を出す。
『湊が女の人とデートするなら、どこに連れてくの?』
「…………」
天井を見る高橋湊。
しかし、具体的な場所が浮かばない。
会食で利用する店ならいくらでも知っている。
ホテルのレストランも、紹介制の店も、予約の取りづらい店も。
だが、それをデートと呼ぶのかは分からなかった。
「食事という目的なら、店を予約する」
『どんな店?』
「相手の希望による」
『そうじゃなくて、湊が行きたいところ』
「僕が?」
『うん』
「…………特にない」
『つまんな!』
「君はどこへ行くんだ」
『私?』
少し考えるような間があって。
『焼き鳥』
「焼き鳥?」
『うん。焼き鳥食べながらビール』
「それはデートなのか?」
『デートでしょ』
「…………」
『何その沈黙。焼き鳥に謝れ』
「焼き鳥に謝罪する合理的理由がない」
『高級フレンチより楽しいよ。絶対』
「なぜ比較対象がフレンチなんだ」
『湊が連れて行きそうだから』
「僕は一言も言っていない」
『じゃあ今度行ってみ。焼き鳥』
「…………」
今度はその言葉が、妙に耳に残った。
だが里桜は、そんなことには気づかず話を続けている。しかも妙に楽しそうだ。
『あ、でも私、皮は塩ね』
「聞いていない」
『つくねはタレ』
「だから聞いていない」
『湊は?』
「知らない」
『焼き鳥の好みくらい持っとけよ』
「僕の人生において、焼き鳥の優先順位は低かった」
『じゃあ今から上げてこ』
「なぜ君が決める」
そんな、中身のない話が続いた。
仕事の報告でもない。入れ替わりを元に戻す方法についての議論でもない。明日の予定を確認しているわけでもない。
何の結論も出ない。何の生産性もない。
高橋湊が普段なら、最も無駄だと判断して即座に切り捨てる種類の会話だった。
だが、通話を切る理由が見つからなかった。
いや、その理由を探さない自分がいた。
『あ、もうこんな時間』
湊は時計を見る。
いつの間にか、日付が変わろうとしていた。
『寝なきゃ。明日も仕事だし』
「ああ」
『じゃ、おやすみ』
「…………ああ。おやすみ」
通話が切れる。
急に静かになった部屋で、湊はスマートフォンをテーブルに置いた。
三日目。
初日は、必要があったから電話をした。
二日目も、互いの仕事や生活について情報共有する必要があった。
では、今日の電話は、何のためだったのだろう。
「…………」
考えたところで、合理的な答えは出なかった。
ただ、明日の夜も、当然のように電話をする気がしていた。
そして、それを不自然だとは思わなくなっている自分にも。
まだ、気づいていなかった。




