第二十話:それが普通だから
入れ替わって、四日目。
高橋湊としての出勤にも、里桜は少しずつ慣れ始めていた。
黒塗りのマイバッハにも、山田の恭しい「おはようございます」にも、エントランスですれ違う社員たちが一斉に頭を下げてくる光景にも、初日のようにいちいち動揺することはなくなった。
人間、慣れるものだ。
たとえそれが、自分とは一生縁がないと思っていた大企業の社長生活であっても。
「おはようございます、社長。本日の予定をご説明いたします」
社長室へ入るなり、神崎がタブレットを片手に淡々と予定を読み上げていく。
午前十時、経営企画部との定例会議。
十一時三十分、取引先とのオンラインミーティング。
十二時から会食。
午後二時、投資案件に関する最終協議。
午後四時――。
里桜はデスクに座りながら聞いていた。
だが、頭の中では別の問題が日に日に巨大化していた。
(これ……どうすんの?)
初日は、分からないものには極力触れないようにした。
二日目も、神崎の助けを借りながら、判断できるものだけを処理した。
三日目も同様だ。
結果、判断を保留した案件が、着実に積み上がっていた。
資料の束だけではない。
メールにも、社内システムにも、『社長判断待ち』という恐ろしい文字が増殖している。
(湊にどうやって引き継ぎすんの、これ)
(そもそも、いつ戻るの、私たち)
一日なら、まだ笑い話で済んだ。
二日目には、少し慣れた。
三日目には、夜に電話をすることまで何となく日課になり始めた。
だが、四日目ともなれば話が違う。
自分はただの契約社員であって、高橋湊ではない。
数十億円の投資判断など、できるわけがない。
午後。
ようやく少しまとまった時間ができた里桜は、社長室のデスクいっぱいに資料を広げていた。
「これは……湊に聞く。これも湊。これも……知らん。湊」
その時、社長室の扉が開いた。
「湊さん!」
「え?」
聞き覚えのない女性の声だった。
顔を上げた瞬間、上品なワンピースを着た女性が満面の笑みでこちらへ歩いてくる。
その後ろには、仕立てのいいジャケットを着た年配の男性。
そして、そのさらに後ろに、神崎。
「ついに結婚する気になったのね!」
「…………は?」
女性の目には、すでに涙が浮かんでいた。
「ああ、お母さん嬉しいわ。ねぇ、お父さん」
「ああ。やっとこれで孫の顔が見られる」
男性も満足そうに頷いた。
「神崎君から聞いたぞ。先方は財閥本家のご令嬢らしいじゃないか。家柄も申し分ないそうだな。これで安泰だ。よくやった、湊」
「…………」
里桜の思考が止まった。
(湊のお父さんとお母さん!?)
視線だけを、ゆっくりと神崎へ向ける。
神崎は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
表情はいつも通りだった。
だが、その胸中は穏やかではない。
(……外堀を埋めた甲斐がありましたね)
今年に入って、二十一件。
社長に持ち込まれた縁談は、ことごとく一蹴されてきた。
写真すら見ずに断ったものも少なくない。
それが今回、初めて。
『考える』
そう言ったのだ。
この機会を逃すほど、神崎は無能ではなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
里桜は慌てて立ち上がった。
「父さん、母さん。僕はまだ結婚すると決めたわけではありません。検討すると伝えただけで――」
「つまり、真剣に考えているということだろう?」
父親が食い気味に返す。
「え」
「お前が縁談を真面目に検討したことなど、今まで一度もなかったじゃないか」
「…………」
「なら、もう結婚してしまえ。人生には勢いが必要な時もある」
(いやいやいやいや!)
「そうよ、湊」
母親が嬉しそうに里桜の手を握った。
「あなた、もう三十二歳なんだから。そろそろ身を固めてもいいでしょう?」
「…………」
困った。
非常に困った。
自然と眉間に皺が寄る。
何故なら、昨日、本人からはっきり言われているからだ。
『断れ』
それどころか、自分が不用意に「考える」と言ったせいで、存在しない結婚意思まで発生させてしまった。
だから、この縁談は断らなければならない。
「湊さんが結婚したら、お母さん本当に安心するわ」
目の前で母親が嬉しそうに涙を拭っている。
父親も、いつになく満足そうだ。
(…………湊のお父さんとお母さん、いい人そう)
この二人を前にして。
『やっぱやめます』
と言えるほど、里桜の心臓は強くない。
(湊ぁぁぁぁ! どうすんのこれぇぇぇぇ!)
◇◇◇
その頃。
本物の高橋湊は、別の意味で追い詰められていた。
「佐伯さん、ちょっと面談いい?」
リーダーSVに呼ばれ、小さな面談ブースへ入る。
月に一度行われる個人面談。
応対品質や処理効率を確認し、今後の課題を共有するためのものらしい。
テーブルを挟んで向かいに座ったSVが、パソコンを開いた。
「じゃ、まず新人研修の件からね。今月、研修後の着台者の品質、ちょっと低いんだよね」
湊が見せられている資料には、研修後に実際の顧客対応へ移行した者の応対品質、早期離職率。
いくつかの数字が並んでいる。
「あと退職率も高い。せっかく採用して研修しても辞められたら意味ないから。ここ、もうちょっと何とかして」
「確認します」
湊は資料に目を落とした。
「新人研修のカリキュラム作成および改善は、佐伯の正式な職務分掌に含まれている業務ですか」
「担当っていうか、佐伯さん詳しいじゃん。新人にも教えてるし」
「明確な権限と責任の範囲を確認しています」
「…………まあ、そこまで堅く考えなくてもいいけど」
SVは苦笑した。
「とにかく、今のままだと着台後のレベルが低いから。カリキュラム見直して」
「具体的に、どの工程に問題があると分析されていますか」
「だから、それを考えるのが佐伯さんでしょ」
「…………」
湊は黙った。
原因分析も、改善案の策定も、実行も、すべて佐伯に要求している。
「研修品質を改善するためには、現行カリキュラムの分析、新人の応対記録の確認、離職者の傾向分析が必要です」
「うん。だからやって」
「いつ行いますか」
SVが僅かに眉を寄せた。
「そこは空いてる時間でやってよ」
「承知しました。では、次に通常業務の稼働リソースを確認します」
湊は資料をめくった。
「佐伯は通常の顧客対応に加え、クレームの二次対応も担当していますね。一方で、先月より一時間当たりの受電件数を増やすよう要求されています」
「ああ、それね」
SVが画面をスクロールする。
「佐伯さん、応対品質はいいんだけど、もうちょっと件数取れると思うんだよね」
「品質を維持したまま、ですか。クレーム対応を継続したまま」
「うん」
「新人へのフォローも継続する前提で。加えて、新人研修のカリキュラムを全面的に改善するということですか」
「全面的っていうか、改善ね」
「では、その改善業務を行う時間はどこに設定されていますか」
「…………」
SVは返す言葉が見つからない。
数秒後、相手が面倒そうに息を吐く。
「佐伯さん、なんか今日、細かくない?」
「業務量と労働時間の整合性を確認しているだけです」
「いや、だから。そこは上手くやってよ」
「上手く、とは具体的に何を指しますか」
「空いてる時間とかあるでしょ」
「受電件数を増やすのであれば、空き時間は減少します」
「…………」
「クレーム対応は一件当たりの処理時間が通常対応より長い。新人フォローにも時間が必要です。その上で研修内容を分析し、改善案を作成するのであれば、何らかの業務を削減するか、人員を追加アサインする必要があります」
SVの表情が、露骨に曇った。
「そうやって反論して、何になるの?」
「反論ではありません。業務のボトルネックとリソースの配分を確認しているだけです」
「反論する暇があるならさ、どうすれば研修の質が上がるか考えてよ」
「ですから、そのための時間を要求しています」
「…………」
会話が成立していない。
湊は初めて、そう明確に判断した。
利益も生まない。問題も解決しない。
ただ、責任の所在だけを現場へ押しつけている。
「では質問を変えます」
湊は静かに言った。
「通常受電、クレーム対応、新人フォロー、研修カリキュラム改善。この四つのうち、どの業務の優先順位を下げればいいですか」
「全部やって」
「稼働時間の上限を超過します。物理的に不可能です」
「でも佐伯さん、いつもやってんじゃん」
「…………」
あまりにも軽い口調だった。
「うちでは、それが普通だからさ」
普通。
その言葉を、頭の中で反芻する。
クレームを処理し、新人を教え、研修を改善し、その上で、もっと電話を取れと言われる。
そして、それができてしまうから、里桜はさらに仕事を与えられる。
「…………なるほど」
湊は小さく呟いた。
「何?」
「いえ」
できる人間に仕事を集中させる。
できているという事実を根拠に、さらに負荷を追加する。
そして限界を訴えれば、『今までできていた』とマネジメントの放棄を正当化し、退ける。
非効率極まりない。組織の腐敗だ。
(佐伯は、これだけの業務を処理して――)
湊は、自分が使った彼女のカードを思い出した。
コンビニで買った、七百九十八円の昼食。
その金額すら、彼女の生活にとっては無視できない。
この業務量。この過大な責任。
そして、この劣悪な待遇。
労働分配率が完全に破綻している。
数字が、合わない。
高橋湊は静かに椅子へ背を預けた。
その目から、少しずつ温度が消えていった。




