第二十一話:眼鏡ぶっ壊すぞ!
リーダーSVとの面談を終え、湊はフロアへ戻った。
自席へ向かう途中、佐藤がこちらに気づいて椅子を少し引く。
「里桜、大丈夫だった?」
「何がだ」
「面談。長かったじゃん」
「ああ」
湊が席に着くと、佐藤は周囲を一度確認してから、少し声を落とした。
「ていうかさ、上も里桜に頼りすぎなんだよね。新人研修もやって、フォローもして、クレームも取って、それで件数も上げろって無理あるでしょ」
「…………」
「里桜も里桜で安請け合いしすぎなんだってば。頼まれたら『いいですよー』ってすぐ引き受けるじゃん」
「そうなのか」
「そうなのかって、自分のことでしょ」
佐藤が呆れたように笑った。
「前から言ってんじゃん。もうちょっと断りなって。できるからって何でもやってたら、また仕事増やされるよ」
湊は黙って佐藤を見た後、パソコンの画面へ視線を戻す。
少なくとも、佐伯里桜が置かれている状況を、おかしいと正しく認識している人間はいる。それには、僅かに安堵した。
先ほどの面談で聞いた『うちでは、それが普通だから』という言葉。
あれがこの職場全体の共通認識ではないらしい。
里桜自身も、理不尽な要求をすべて一人で抱えているわけではない。少なくとも隣には、それを理不尽だと言ってくれる人間がいる。
だからこそ、あの女は、こんな環境でも笑って仕事を続けていられるのかもしれない。
『里桜も里桜で安請け合いしすぎなんだってば』
頼まれれば、引き受ける。
無茶を言われても、どうにかする。
そして。
『まあ、いっか』
昨夜までとは違う意味を持ってしまった言葉が、頭を過った。
「…………」
湊は小さく息を吐き、受電可能のステータスへ切り替えた。
直後、着信が入る。
『お電話ありがとうございます――』
その日最後の一件は、クレームだった。
◇◇◇
対応を終え、定時を迎える。
湊はパソコンをシャットダウンし、佐藤たちに挨拶をしてオフィスを出た。
エレベーターで一階まで降り、エントランスを抜けると、外はすでに夜の帳が下りていた。
里桜に、今日の業務について、共有すべき事項がある。
新人研修、クレーム対応、業務量。そして、あのSVのマネジメント放棄についての報告。
報告事項は多い。だから電話をする。それだけだ。
湊がそう合理的に結論づけ、スマートフォンに手をかけた、その時だった。
「里桜」
この体を呼び止める、男の声がした。
顔を上げると、少し離れた場所に、一人の男が立っていた。
黒の無地のカットソーに、薄手のグレーのシャツジャケット。細身のパンツに白いスニーカーという、ごくシンプルな格好だった。
短く整えられた髪にも派手さはなく、年齢は三十前後だろうか。目立つ男ではない。だが、清潔感があり、一見すると人当たりも悪くなさそうに見える。
その男は、真っ直ぐこちらを見ていた。
「…………」
湊は足を止める。男が近づいてくる。
「待ってた」
その心理的境界線を無視した距離の詰め方に、湊の眉が僅かに動いた。
「この前は、本当にごめん」
「…………」
「ちゃんと話したい。俺の話、聞いてほしい」
男は一度言葉を切ると、まっすぐこちらを見た。
「里桜。もう一度、俺とやり直せないか?」
その瞬間、湊の記憶の中で、散らばっていた情報が一つの名前として結合した。
『マサト:里桜、この前はごめん。俺らまたやり直せないかな?』
三日前、ロック画面に表示されたメッセージ。
そして昨夜、あの異常な女が笑いながら口にした言葉。
『里桜の歴代の彼の中で、一番真面目でうぶだったわ』
湊は、目の前の男を冷徹に再評価する。
安価だが清潔に保たれた衣服。従順さを装う視線。他者のパーソナルスペースへ無自覚に踏み込む自己中心的な態度。
なるほど。この『無害さ』を擬態して、他者に寄生するタイプの男か。
(こいつが――)
マサト。
◇◇◇
その頃。
高橋湊の社長室では、まったく別の戦いが続いていた。
「この縁談は、断ろうと思っています」
里桜は、できる限り冷静に言った。
向かいのソファには、湊の両親。
そして少し離れた場所には、神崎。
完全に逃げ道を塞がれている。
「なぜ!?」
母親が身を乗り出した。
「家柄も申し分ないでしょう? お写真も見たけれど、とても綺麗なお嬢さんじゃない。何が嫌なの?」
「嫌なところがあるわけではありません」
「なら、何が問題なんだ」
今度は父親が口を挟む。
「これ以上ない縁談だろう。先方の家柄も申し分ない。お前の会社にとっても悪い話ではないはずだ」
「それは……」
「一緒になってから好きになることもある。結婚というものは、最初からすべてが分かってするものではない」
「…………」
父親は腕を組み、大きく頷いた。
「もう決めてしまえ、湊。人生には勢いが必要な時もある」
(何なの、このゴリ押し両親……!)
里桜は額を押さえたくなる衝動を必死に堪えた。
昨日、本物の高橋湊からは、はっきり言われている。
『断れ』
本人にその意思がない以上、断る。それで終わる話のはずだった。
なのに、なぜ両親まで参戦しているのか。
里桜は一度、大きく息を吐いた。
「父さん、母さん。聞いてください」
二人がこちらを見る。
「僕の人生の選択権は、この高橋湊自身にあります」
高橋湊自身。現在、その中身は佐伯里桜である。ややこしいにもほどがある。
だが今は、それどころではない。
「だから、結婚相手は僕が選びます」
父親の眉が動いた。
「…………む?」
何かを考えるように里桜を見つめる。
「湊、そういう相手がいるのか?」
「…………え?」
「お前が自分で選びたいということは、結婚を考えている女性がいるということか?」
(しまった)
里桜の背中に冷たい汗が流れた。
「いや、それは――」
「いえ」
横から、極めて落ち着いた声が割り込んだ。
里桜は嫌な予感とともに顔を向ける。神崎だった。
「私が認識している限り、ここ五年以上、社長に特定のお相手はいらっしゃいません」
「…………」
(神崎ぃぃぃぃぃ!!)
里桜は完璧な笑顔のまま、心の中で絶叫した。
(このクソ眼鏡、いらん援護射撃すな! 眼鏡ぶっ壊すぞ!!)
「……神崎君。君も、僕のすべてを知っているわけではないだろう」
「…………」
神崎の指が、眼鏡のブリッジへ伸びた。
中指で、クイッと押し上げる。その表情は変わらない。
しかし里桜には、なぜか分かった。
(――私の把握していない情報があると?)
眼鏡の奥の目が、そう語っている。
(なんだその顔! ないよ! 何もないよ!)
「湊!」
今度は父親が身を乗り出した。
「いるのか!? 結婚を考えている女性が!」
「だから――」
「あら!」
母親の顔が、一気に明るくなる。
「それならそう言ってくれればいいじゃない!」
「いや、まだ何も――」
「いいことじゃない。お父さんとお母さんだって恋愛結婚だったのよ?」
「母さん、コホン」
父親が少し照れたように咳払いをした。
「もう、お父さんったら。昔は本当に情熱的だったのよ。毎日のように電話してきて、週末になると――」
「母さん、恥ずかしいからやめてくれ」
そう言いながら、父親は、ごく自然に妻の腰へ手を回した。
そのまま、自分の方へ少し引き寄せる。
「…………」
母親は嬉しそうに笑っている。
父親も、困ったような顔をしながら、どこか楽しそうだった。
息子の前で、何をやっているんだ。そう突っ込みたい。
だが、なぜか、言葉が出てこなかった。
(仲、いいんだな)
結婚して、子供が三十二歳になるほどの年月を一緒に過ごして。
それでも、こんなふうに笑い合える。こんなふうに、当たり前に触れ合える。
(……素敵なご両親だな)
胸の奥が、ほんの少しだけ疼いた。
自分とは、違う。
里桜は、それ以上考えるのをやめた。
(…………まあ、いっか)
「コホン」
父親の咳払いで、意識が戻る。
「とにかくだ、湊」
「……はい」
父親は腕を組み、社長を相手にするよりよほど厳しい顔で、自分の息子を見据えた。
「父さんは、お前が見込んだ女性を連れてこない限り、今回の縁談を進めるからな」
「…………え」
里桜は完全に固まった。
(待って)
そんな女性はいない。いると言っていない。ただ、自分で選ぶと言っただけだ。
(なんで彼女連れてくる話になってんの!?)
ちらりと横を見る。
神崎が、また眼鏡のブリッジに指をかけた。
(だからその眼鏡クイッてすんのやめろ!!)
里桜はこの四日間で初めて、他人の眼鏡を、本気でぶっ壊したいと思った。




