第二十二話:二度と、この身体に触れるな
「もう一度、俺とやり直せないか?」
真っ直ぐに見つめてくる男の目を、湊は微動だにせず観察した。
マサト。
佐伯里桜の元交際相手であり、あの異常な母親とも関係を持ったとされる男。
少し垂れた目と、どこか自信のなさそうな弱々しい態度。一見すると優しく無害に見える。
だが、湊には違って見えた。
相手の同情や罪悪感を刺激し、自分の要求を受け入れさせる。
少なくとも、目の前の男の言動にはその傾向がある。
「断る」
湊はその答えは、一秒の躊躇もなかった。
「え……」
マサトの顔に、分かりやすい動揺が走る。
「待ってよ、里桜。俺が悪かったって。佐藤さんからも最近お前が無理してるって聞いて……俺、やっぱりお前を支えたいって――」
「不要だ」
「里桜!」
マサトが、湊の――正確には佐伯里桜の腕を、強引に掴んだ。
「…………」
その瞬間だった。
胸の奥に、強烈な不快感が走った。
この感情の正体を、湊はまだ知らない。
ただ、自分の知らないところで理不尽に耐え、それでも周囲に笑いかけていた里桜の身体に、この男が当然のように触れている。
その事実が、どうしようもなく不快だった。
湊は、掴まれた腕を乱暴に振り払うような感情的な行動は取らなかった。
ただ、絶対零度の視線をマサトへ向け、逆に一歩だけ距離を詰めた。
「……触れるな」
「え……」
「二度と、この身体に気安く触れるな」
声は低く、ひどく静かだった。
怒鳴ってはいない。
だが、その声から完全に感情が消えたことで、かえってマサトの身体が僅かに強張った。
「な、何だよ……」
「やり直す?支える?」
湊は冷え切った目で男を見る。
「自分が寂しくなったから、以前の関係に戻ろうとしているだけだろう」
「違う! 俺は本当に里桜のことを――」
「母親の一件も、すべて把握している」
マサトの顔から、完全に血の気が引いた。
「…………え」
その反応だけで十分だった。
昨夜、あの女から聞いた話が、事実である可能性は限りなく高い。
「お前が何を後悔しているのか、今も彼女をどう思っているのか。そんなことはどうでもいい」
「…………彼女?」
マサトが眉を寄せた。
「里桜、お前さっきから何なんだよ。自分のことだろ?」
「…………」
湊は一瞬、黙った。
目の前の男が不快すぎて、自分が現在、佐伯里桜としてここに立っていることが抜け落ちていた。
「……言い方の問題だ」
「は?」
「重要なのはそこじゃない」
「いや、でも――」
「話を逸らすな」
ぴしゃりと言い切ると、マサトが押し黙った。
「私が言っているのは、実際にお前が何をしたかだ」
湊の声には、もう一切の温度がなかった。
かつて何人もの経営者を交渉の席で黙らせてきた、高橋湊本来の声だった。
「交際相手の母親と関係を持った。そして別れた後も連絡を繰り返し、返事がなければ勤務先まで押しかける」
「俺はただ、ちゃんと話を――」
「必要ない」
言葉を被せる。
「謝罪したいのも、やり直したいのも、支えたいのも、全部お前の要求だ」
「…………」
「私がどう思っているかは、一度でも考えたのか?」
「それは……」
「返事をしていない。それが答えだ」
「でも俺は――」
「だから、その『俺は』をやめろと言っている」
マサトの言葉が止まった。
「俺は謝りたい。俺は後悔している。俺はまだ好きだ。俺はやり直したい」
湊は一つずつ並べた。
「全部、自分の話だ」
「…………」
「自分の後悔を処理するために、私の人生をこれ以上消費するな」
マサトの顔が歪んだ。
「……里桜、変わったな」
「そうか」
「前はこんな言い方しなかっただろ」
「…………」
「もっと優しかったじゃん。何かあっても、最後には『まあ、いっか』って笑って……」
その瞬間、湊の目から、完全に温度が消えた。
昨夜までとは違う意味を持ってしまった、あの言葉。
母親。
職場。
そして、目の前の男。
頼めば引き受ける。
無茶を言っても、どうにかする。
自分が傷ついても、最後には笑って、受け流す。
『まあ、いっか』
「お前は、何度利用した?」
「利用って……何言ってんだよ。里桜がそういう性格だっただけだろ」
湊は静かにマサトを見据えた。
「なら、最後に一つだけ教えてやる」
「…………」
「それは許されたんじゃない」
マサトの眉が動く。
「諦められただけだ」
「…………」
「お前と話しても無駄だと判断された。それだけだ」
マサトが何かを言おうと口を開く。
湊は、それすら許さなかった。
「今後、私に連絡するな」
「里桜――」
「電話もメッセージも必要ない。家にも来るな。勤務先で待つのもやめろ」
「そんなの、一方的すぎるだろ!」
「交際は双方の合意がなければ成立しない。終了には、お前の同意は必要ない」
「…………っ」
「理解できないなら、何度でも読み返せるよう文章で送ってやる」
「お前……」
「これ以上、私の視界にノイズを入れるな。次に私の前に姿を現せば、社会的に完全に呼吸ができなくなるよう、あらゆる手段を持って徹底的に排除する。理解したな」
「……脅してんのかよ」
「警告だ」
昨夜も、同じ言葉を使った。
「次はない」
反論の余地を与えない、冷酷な宣告だった。
マサトはしばらく湊を見つめていた。
やがて視線を逸らし、背を向ける。
そのまま夜の街へ消えていく後ろ姿を、湊は氷のように冷たい目で見送った。
完全に姿が見えなくなってから、自分の腕へ視線を落とす。
マサトに掴まれた場所。
そこを、不快そうに手で払った。
それでも足りず、もう一度。
「…………」
胸の奥には、まだ黒い感情が残っている。
この感情に「恋」という名前をつけるには、高橋湊という男は、あまりにも自分自身の感情に疎かった。
(……当然の防衛措置だ。この身体を安全な状態で維持し、本人に返却する義務が私にはある)
湊はそう結論づけると、里桜の香りのするマンションへと歩き出した。




