第二十三話:事故で恋人は発生しない
マンションへ向かう道すがら、湊は自分の中に残る苛立ちを持て余していた。
これまでの人生で、あれほど感情的になったことがあっただろうか。
不愉快な人間など、いくらでも見てきた。
交渉の場で声を荒らげる経営者も、自分の失敗を部下へ押しつける役員も、都合の悪い数字を隠して契約を成立させようとする人間もいた。
だが、そのたびに湊がすることは同じだった。
状況を把握し、問題を分析し、最適な対応を取る。そこに感情が入り込む余地などない。
今日だって、実行したタスクだけを見れば同じだ。
佐伯里桜にとって有害となる可能性の高い人間を特定し、接触を断つよう警告した。ただ、それだけのはずなのに。
『俺は本当に里桜のことが好きなんだ』
あの男の言葉を思い出すだけで、また胸の奥がざわついた。
さらに、里桜の腕を掴んだ手まで思い出して、深く眉間に皺が寄る。
「…………」
おかしい。
この身体になってから、何かがおかしい。
ホルモンバランスなど、身体的な変化が精神状態に影響を及ぼしている可能性も否定できない。
(……一度、冷静に情報の整理と分析を行う必要があるな)
そう結論づけたところで、マンションに着いた。
部屋に入り、バッグを置く。
スマートフォンを見ると、里桜からメッセージが届いていた。
『湊、どうしよう』
その直後に、もう一件。
『ヤバイ、話したい!』
湊はすぐに発信した。
数回のコール音すら待たず、即座に電話が繋がる。
『湊ぉぉぉ!』
「声が大きい。要件から言え」
『どうしよう!』
「何があった」
『とりあえず聞いて!』
「聞いている」
湊はスマートフォンをスピーカーに切り替え、キッチンへ向かった。
シンクに置いてあった弁当箱を軽くすすぎ、水につける。
冷蔵庫を開けると、里桜が作り置きしていた料理が並んでいた。
すでに何度か食べているため、どこに何があるのかも把握している。
栄養バランスを考慮して的確に二品を選択し、ご飯と一緒に電子レンジへ入れた。
『今日ね、湊のお父さんとお母さんが会社に来たの』
「両親が?」
『そう! いきなり来て、「縁談決めたんだな、湊!」って!』
「…………なぜそうなる」
『神崎だよ!』
即答だった。
『あの眼鏡が連絡したの! 今回だけ湊が「考える」って言ったから、ご両親に報告したらしくて!』
湊は無言になった。
神崎、余計な仕事が早すぎる。
電子レンジが鳴った。
温めた料理をテーブルへ運び、椅子に座る。
『でね、私ちゃんと言ったの。「この縁談は断ろうと思っています」って。そしたら、なんで断るんだって話になって!』
「当然だろうな」
『他人事みたいに言わないでよ! 湊の親だからね!?』
「僕は断れとだけ言った。それ以上の指示は出していない」
『冷たっ!』
湊は両手を合わせた。
「いただきます」
『今から食べるの!?』
「夕食の時間だ。エネルギーの補給は業務より優先される」
『私いま結構な緊急事態なんだけど!?』
「聞いている。続けろ」
箸を取る。一口食べる。
今日も、悪くない。
『それでさ。結婚するなら相手は自分で選ぶって言ったの』
「…………」
箸が止まった。
嫌な予感がした。
「なぜ、そんなことを言った」
『だってそうでしょ!? 湊の結婚相手なんだから、湊が選ぶべきじゃん!』
「一般論としては正しい」
『でしょ?』
「だが、僕の両親に対して言う必要はない」
『なんでよ』
「その発言から、次に何を聞かれるかロジックツリーで予測できるからだ」
『…………』
電話の向こうが静かになった。
湊はご飯を口に運ぶ。
「それで?」
『…………相手がいるのかって聞かれた』
「だろうな」
『それで神崎が「私が認識している限り、ここ五年以上、社長に特定のお相手はいらっしゃいません」って』
「事実だ」
『あの眼鏡ぇぇぇ……!』
「神崎は正確な情報を提供しただけだ」
『で、私も焦ってさ! 神崎だって湊の全部を知ってるわけじゃないでしょって言ったの』
湊の箸が、再び止まった。
「…………佐伯。君は、僕に何をした」
『まだ何もしてない』
「まだ?」
『言葉の綾!』
湊は小さく息を吐いた。
『そしたら今度は、お父さんが「やっぱり相手がいるんじゃないか」ってなって。お母さんまで「どんな人なの?」ってめちゃくちゃ嬉しそうになって!』
「それで」
『…………』
「佐伯」
『…………湊が見込んだ女性がいるなら、一度連れてこいって。できないなら、今回の縁談をもう一回ちゃんと考えろって』
「…………」
『どうしよう』
湊は黙ったまま、作り置きのおかずを口へ運んだ。
状況は完全に理解した。
高橋湊に、存在しない恋人ができたらしい。しかも、その女性を両親へ紹介しなければならない。
実にくだらない。そして、極めて面倒だ。
『湊?』
「聞いている」
『怒ってる?』
「呆れている」
『ごめんって! 私もこんなことになると思わなかったんだもん!』
「少し考えれば予測できる」
『無理だって! あの状況で!』
「僕なら予測できる」
『私は湊じゃないの!』
「今は僕だろう」
『そういう意味じゃない!』
思わず、口元が僅かに緩んだ。
里桜は完全に慌てている。
普段なら「まあ、いっか」で済ませる女が、今日は珍しく本気で困り果てているらしい。
『どうしよう……。ねえ、どうしたらいい?』
「…………」
湊は頬杖をつき、電話の向こうから聞こえてくる声に静かに耳を傾けた。
『誰か適当に頼む? いや、ダメだよね。湊の彼女役なんて誰に頼めばいいの。ていうか女の人の知り合いなんて私知らないし』
「そうだな」
『会社の人は絶対ダメでしょ?』
「コンプライアンス上、当然だ」
『レンタル彼女とか?』
「却下する。リスクが高すぎる」
『じゃあどうすんの!?』
「さあ」
『さあ!?』
声が裏返った。
湊はもう一口食べる。
不思議だった。
つい先ほどまで、あれほど荒れ狂っていた感情が静まっている。
マサトの顔を思い出すだけで湧き上がっていた苛立ちも、今はもう遠い。
代わりに、電話の向こうで慌てふためく里桜の声を聞きながら、温かい夕食を食べている。
それが、妙に心地いい。
『ちょっと湊!なんでそんな余裕なの!?』
「直接的に僕の問題ではないからな」
『湊の彼女の話だよ!? 百パーセント湊の問題だよ!』
「僕が意図して作った彼女ではない」
『私だって作ってない!』
「君が不用意な発言で存在を示唆した」
『事故だよ!』
「事故で恋人は発生しない」
『発生したんだよ!!』
湊の口元が、また僅かに緩んだ。
電話越しだから、里桜には見えない。それをいいことに、湊はしばらく黙って食事を続けた。
『……ねえ』
「何だ」
『ほんとにどうしよう』
先ほどより少し弱った声。
湊は箸を置いた。水を一口飲む。
そして、何でもないことのように、静かに言った。
「ならば、存在しない恋人を作った君自身が、実体として責任を取ればいいだろう」
『…………ひょ?』
思わず変な声が出る里桜。
『…………はい?』
里桜の声が、明らかに警戒したものへ変わる。
『……どういう意味?』
湊は答えなかった。
代わりに、再び箸を取る。
「この煮物、悪くないな」
『今その話してないよね!?』
湊は、声に出さず、ほんの僅かに笑った。




