第二十四話:ゴンゾウに備えろ
『今その話してないよね!?』
電話の向こうで里桜が抗議している。
湊はそれには答えず、煮物をもう一口食べた。
『ちょっと湊。さっきのどういう意味? 私が責任取るって何?』
「文字通りの意味だ」
『そのままが分かんないから聞いてるんだけど!』
「明日の夜、改めて指示する」
『今説明してよ!』
「食事中だ」
『自分から爆弾落としといてご飯優先すんな!』
湊は騒がしい声を聞き流しながら、淡々と食事を続けた。
今日の煮物も悪くない。
そういえば明日の予定は何が入っていただろうか。
金曜日。午前中に経営会議。午後は――。
そこまで思考を進めたところで、湊の箸がピタリと止まった。
「…………」
いや、明日は、第一金曜日だ。
「…………まずい」
『え?』
湊の表情が完全に抜け落ちた。
『何? どうしたの?』
「明日、何月何日だ」
『え? 十一日……じゃなくて、明日は十二日。金曜日』
「第一金曜日だな」
『そうだけど。それが何?』
湊は箸を置いた。
この連日の異常事態により、完全に失念していた。
毎月、第一金曜日だけは、他のいかなる予定も入れない『聖域』の時間がある。
「佐伯」
『何?』
「明日の昼、会食がある」
『…………』
数秒の沈黙。
『また?』
心底嫌そうな声だった。
「そうだ」
『今週何回高いご飯食べさせる気!? もう嫌なんだけど! 普通のご飯食べたい!』
「明日は絶対に断るな。リスケジュールも不可だ」
『え』
それまで騒いでいた里桜の声が止まった。
「他の予定とは重要度が違う」
『…………誰と?』
「石黒権蔵」
『ごんぞう?』
「石黒産業グループ会長。五十八歳」
『名前つよ』
「名前は関係ない」
『だってゴンゾウだよ? 絶対強いじゃん』
「人間の能力を字面で判断するな」
湊は額を押さえた。
石黒権蔵。
石黒産業グループを率いる、産業界のドン。
国内外に数多くの企業を抱え、その影響力は一企業の経営者という枠には収まらない。政財界にも太い人脈を持ち、大規模な投資案件では石黒の判断一つで業界全体が動くことすらある。
そして、高橋湊にとっては、それ以上に特別な人物だった。
「僕が会社を立ち上げた時、最初に出資を受けている」
『え?』
「創業時の、最大のエンジェル投資家だ」
『…………』
電話の向こうが静かになった。
湊が会社を立ち上げた当時。
若く、実績も信用も、今とは比較にならないほど乏しかった。
市場規模、成長率、収益予測、競合分析。考え得る限りの数字を揃え、何度も事業計画を練り直した。
その計画に最初に大きな金を出した人物が、石黒権蔵だった。
現在の高橋湊を作った人物の一人と言ってもいい。
『……湊でも、頭上がらない人いるんだ』
「いる」
即答だった。
「毎月第一金曜日の昼は、石黒会長との定例会食と決まっている」
『毎月!?』
「十年近く続いている」
『十年!?』
「だから問題なんだ」
『…………何が?』
湊は僅かに眉を寄せた。
「石黒会長は、僕という人間を誰よりもよく知っている」
『…………あ』
ようやく里桜も重大性に気づいたらしい。
『それ、ヤバくない?』
「致命的だ」
『どうしよう!』
「だから今から対策を講じる」
『今から!?』
「当然だ」
湊は食事を終えると、食器をシンクへ運んだ。
スマートフォンはスピーカーのままにして、里桜との通話を続ける。
「まず、明日予定されている議題を確認しろ」
『議題なんてあるの? ご飯食べるんじゃないの?』
「食事は単なる手段だ」
『湊って会食になると毎回それ言いそう』
「事実だからな」
『石黒さんとも仕事の話しかしないの?』
「基本的にはそうだ」
『十年も毎月ご飯食べてるのに?』
「何か問題があるか」
『…………いや。もういい』
なぜ呆れられたのか分からない。
「明日、石黒会長から聞かれる可能性が高いのは、直近の業績と進行中の案件だ」
『はい』
「売上、営業利益、利益率。前月比、前年同月比。主要事業別の数字も叩き込んでおけ」
『ちょっと待って』
「何だ」
『今メモするから』
「早くしろ」
電話の向こうから紙を探す音が聞こえる。
『はい、どうぞ』
「それから現在進行中のM&A案件。石黒産業との共同案件についても、進捗を把握しておけ」
『…………』
「聞いているか?」
『聞いてる』
「レスポンスが遅い」
『情報量が多いんだよ!』
「この程度は最低限のインプットだ」
『最低限の意味、広辞苑で調べ直した方がいいよ』
「必要ない」
湊は冷蔵庫から水を取り出した。
「石黒会長は曖昧な回答を酷く嫌う。数字を聞かれて『たぶん』『おそらく』『そのくらい』という不確定な表現は絶対に使うな」
『え』
「分からないことを推測で答えるな。その場合は『確認して改めて報告します』でいい」
『う、うん』
「僕の判断を求められた場合も、その場で勝手に結論を出すな」
『…………』
「重要案件なら、体調不良を理由に一度保留しろ。後で僕に確認してから回答する」
『はい』
「それから――」
『ねえ、湊』
「何だ」
『石黒さんって、怖い人?』
湊は少し考えた。
「怖い、という表現が適切かは分からない」
『じゃあ、どんな人?』
「数字に厳しい。判断が速い。曖昧な説明を嫌う。一度決めたことは簡単には覆さない」
『…………湊みたい』
「そうか?」
『うん』
湊は水を飲んだ。
確かに、影響を受けていないとは言えない。
二十代前半だった湊に、石黒は何度も言った。
『数字を見ろ』
『感情で経営をするな』
『自分の判断に責任を持て』
現在の高橋湊の思考ロジックの一部には、間違いなく石黒権蔵という男の影響がある。
「僕が事前準備をせずに石黒会長との会食へ行ったことは、ただの一度もない」
『…………』
再び沈黙した。
『それ先に言ってよ』
「今言った」
『そうじゃなくて! 湊が準備するレベルの人なんでしょ!?無理だよ!私、コールセンターの契約社員だよ!?』
「現在は代表取締役社長だ」
『身体だけね!?』
「だから僕が今からインプットする」
『明日のお昼でしょ!?』
「まだ十二時間以上ある」
『寝る時間を計算に入れろ!!』
「睡眠は六時間で十分だ」
『私は足りない!』
そうだった。
この女はよく寝る。というより、この身体も、朝は異常なほど動かない。
実際に数日生活してみて、ようやく湊にも理解できたことだった。
「……七時間は確保する」
『最低八時間』
「長すぎる」
『人権!』
「睡眠時間は人権ではない。健康管理の一環だ」
『ブラック社長!』
「僕の会社は法定労働時間を厳密に遵守している」
『そういう話じゃない!』
湊は小さく息を吐いた。
「とにかく、最低限の情報だけは頭に入れろ」
『はぁい……』
明らかに元気がなくなっている。
「まず直近三か月の業績からだ」
『はい……』
「売上高は――」
そこから、湊による石黒権蔵対策講座が始まった。
売上・利益率・主要案件・投資計画・競合他社・市場動向・石黒産業との共同案件。
里桜が判断を求められた場合の回答フロー。
話しているうちに、湊自身も熱が入ってきた。
『……うん』
「特に石黒会長は、数字の整合性が取れていない説明を嫌う。仮に前年同期比で売上が上昇していても、利益率が低下している場合は――」
『……うん』
「要因を最低三つに分解してロジカルに説明できるようにしておけ。それから――」
『…………うん』
「佐伯」
『…………』
「聞いているか?」
返事がない。
「佐伯?」
微かな音が聞こえた。
『…………すぅ……』
「…………」
湊は黙った。
『……すぅ……』
「…………佐伯」
呼んでみる。反応はない。
時計を見る。まだ日付が変わる前だった。
さっきまであれほど騒いでいた人間が、どうすれば数分で強制シャットダウンされるのか。
「人が説明している途中で寝るな」
当然、返事はない。
電話を切ろうとして。湊の指が止まった。
「…………」
スピーカーから、小さな寝息が聞こえている。
一定の間隔。静かな呼吸。
通話を継続する合理的な理由は、ただの『ゼロ』だ。
むしろバッテリーと通信リソースを無駄に消費するだけで、費用対効果は完全にマイナスである。
直ちに切るべきだ。
「…………」
湊はスマートフォンを見つめた。
それでも、通話終了のボタンを押さなかった。
代わりにスピーカーを解除し、スマートフォンを耳元へ持っていく。
『…………すぅ……』
「…………」
本当によく寝る女だ。
明日の会食は大丈夫なのだろうか。
石黒会長を前にして、こんな調子で余計なことを言わなければいいが。
不安要素しかない。
だが、先ほどまで胸の奥に残留していた苛立ちは、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
「……おやすみ、佐伯」
返事はなかった。
それでも湊は、寝息以外の何の情報も提供しないその通話を、しばらく切ることができなかった。




