第二十五話:ゴンゾウ、現る
翌朝。
里桜は、手の中の振動で目を覚ました。
「…………ん」
薄く目を開ける。
見慣れない広い寝室。高い天井。大きな窓から差し込む朝の光。
そして、右手にはスマートフォンが握られていた。
「…………」
画面には昨夜、湊と通話していた履歴が残っている。
「…………え?」
記憶が戻ってきた。
石黒権蔵。五十八歳。石黒産業グループ会長。産業界のドン。
湊の会社の創業時の最大の出資者。
毎月第一金曜日に、十年近く会食を続けている人物。
そして湊が、事前準備を一度も欠かしたことがない相手。
「え!?」
里桜は飛び起きた。
「え!!!!!」
時計を見る。
「えーーーーーヤバイ!!!!」
ベッドの上で頭を抱える。
「もうダメだぁ。湊の会社潰れちゃうよぉ……!」
もちろん、会食一つで会社が潰れるわけではない。だが、今の里桜にはそのくらいの危機に思えた。
昨夜、湊から何か大量に説明された記憶はある。
売上、利益率、投資、共同案件、前年同期比。
途中までは聞いていた。途中までは。
「…………寝た」
しかも、説明してくれていた本人より先に。
里桜は恐る恐るスマートフォンを確認した。
湊からメッセージが届いている。
そこには、今日の会食で最低限必要になる情報が、項目ごとに整理されていた。
業績、主要案件の進捗、石黒産業との共同案件、聞かれる可能性が高い質問と、その回答に必要な数字。
即答していいもの、判断を保留すべきもの。
短時間で確認できるよう、極限まで無駄が削ぎ落とされている。
「…………」
里桜はしばらく画面を見つめた。
昨夜、自分が寝た後にまとめて送信したのだろう。
「湊……まとめてくれたんだ」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「…………やらなきゃ」
里桜は頬を両手で叩いた。
今日だけは何としてでも、高橋湊をやらなければならない。
◇◇◇
一方、その頃。
本物の高橋湊は、佐伯里桜の部屋で朝食を取っていた。
テーブルの上には、昨夜と同じく里桜が作り置きしていた料理が並んでいる。
食事をしながら、頭の中では今日起こり得る事態を洗い出していた。
石黒会長との会食。
最大のリスクは、里桜が高橋湊のロールプレイを全うできないこと。
だが、それだけではない。
今日、突然入れ替わりが解消される可能性もある。
会食前に戻った場合。
会食中に戻った場合。
会食後に戻った場合。
自分が勤務中に戻った場合。
里桜が石黒会長の目の前にいる状態で戻った場合。
現時点では、入れ替わりが発生した原因も、解消条件も分かっていない。ならば、あらゆる変数を想定するしかない。
最悪のケースから逆算し、それぞれのフェーズにおける対応策を準備する。それが高橋湊のやり方だった。
食事を終えると、弁当箱を取り出し、作り置きのおかずを詰める。
その動作にも、もう迷いはない。
この身体で生活を始めて、五日目。女性として生活することにも、随分慣れた。
最初は何もかもが違った。
今いる部屋は、自分の家とは比較にならない。
ベッドの規格はシングル。マットレスも、自宅で導入している体圧分散型の高級品とは比較にならない。睡眠の質と疲労回復効率を定量的に評価すれば、自宅の環境に軍配が上がる。
ソファには、実用性の皆無なうさぎのぬいぐるみが鎮座している。
タオルは、一度使ったものを直ちに洗濯機へ投入するのではなく、タオルハンガーに掛けて再利用する。
湊には到底理解できない運用ルールだった。
湊は、一度使えば即座にランドリーボックスへ入れる。その方が公衆衛生上、合理的だ。
食事もそうだ。
今、弁当箱へ詰めている料理の材料も、恐らく佐伯のことだから、数円単位のコストカットのために複数のスーパーを巡って調達したのだろう。
希少な食材ではない。洗練された料理でもない。
だが
「…………」
悪くない。
料理だけではない。小さな部屋。安価な家具。意味の分からないぬいぐるみ。
部屋の中に残る、柑橘の爽やかさに僅かな甘さが混じった、彼女の香り。
その中で目を覚まし、彼女の作った朝食を食べ、彼女の作った料理を弁当箱へ詰める。
そんな生産性のない生活にも、いつの間にか慣れていた。
むしろ
「…………悪くないな」
口から出た言葉に、自分で僅かに眉を寄せる。
何が悪くないのか。料理か、生活か、この部屋か。
それとも……。
そこまで考えたところで、湊は思考を強制終了した。
今は、それを分析している場合ではない。
「…………」
湊は弁当箱の蓋を閉めた。
可能な準備はした。必要な情報も提供した。想定できるリスクも洗い出した。
自分にできることは、もうない。
コントロール不可能な変数が多すぎる。
万策尽きた人間が、神という非科学的な存在に縋りたくなる心理を、高橋湊は三十二年の人生で初めて理解した。
◇◇◇
そして、正午。
都内の老舗料亭。
里桜は、背筋を伸ばして座っていた。
目の前には美しく整えられた庭園が広がっている。普段なら、間違いなく写真を撮りたくなる景色だった。
だが、今日はそんな余裕はない。
頭の中では、朝から何度も確認した数字がぐるぐると回っている。
売上、利益率、前年同期比、共同案件、投資額、回収期間。
大丈夫、たぶん。
いや、たぶんは禁止だった。覚えた、絶対。
「…………」
膝の上で、拳を握る。
やがて廊下から足音が聞こえた。
障子が開くと、里桜は立ち上がった。
そして、入ってきた男を見て思考が止まった。
まさかの、袴。
白髪交じりの髪を綺麗に後ろへ流し、額には深い皺が刻まれている。
口元には、豊かに蓄えられた髭。
背筋は真っ直ぐに伸び、五十八歳という年齢を感じさせない。
石黒産業グループ会長。
石黒権蔵、産業界のドン。
そして、高橋湊が唯一、事前準備を欠かさない男。
(うわ。めっちゃゴンゾウ感出てるんだけど)
名前負けという概念を、全力で拒否したような男だった。
もちろん、口には出さない。里桜は高橋湊として表情を整え、静かに頭を下げた。
「石黒会長。本日もよろしくお願いいたします」
「ああ」
低く、落ち着いた声だった。
石黒は里桜の向かいへ座る。
そして、何も言わず、じっと里桜を見た。
「…………」
(え)
里桜も見返す。
その目は、年齢の割にまったく濁っていなかった。どこまでも澄んでいる。
こちらの表情だけではなく、その奥にあるものまで見透かされそうな目だった。
湊から聞いた人物像が、脳裏をよぎる。
数字に厳しく、判断が速く、曖昧な説明を嫌う。湊自身が、毎回事前準備を欠かさない相手。
もっと鋭く、冷たい男を想像していた。
しかし、不思議と怖くない。
見つめられているのに、敵意を感じなかった。
それどころか、どこか、温かい。
「…………」
石黒の目が僅かに細くなった。
里桜は、内心で首を傾げる。
(……あれ?)
もう一度、目の前の老人を見る。
袴、髭、ものすごく権蔵。そこだけは、想像以上だった。
でも
(このおじじ、湊から聞いてた感じと違う?)
石黒権蔵は何も言わない。
ただ、面白いものでも見つけたように、目の前の「高橋湊」をじっと見つめていた。




