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冷徹なサイボーグ社長とただの契約社員の私が入れ替わったのは、生理初日でした  作者: 名前はまだない


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第二十六話:そんな青臭い綺麗事を

(私は高橋湊。私は高橋湊。私は高橋湊)


里桜は心の中で、何度目になるか分からない自己暗示をかけた。

目の前に座っているのは、石黒産業グループ会長、石黒権蔵。五十八歳。

産業界のドンと呼ばれ、湊が会社を立ち上げた際に出資した人物。

そして、あの高橋湊が十年近く、毎月欠かさず事前準備をかかさない相手だ。


朝から何度も湊が送ってくれた資料を読み返した。

主要な数字は頭に入れた。聞かれる可能性の高い質問も確認した。

分からないことを推測で答えない、その場で重要な判断をしない、迷ったら持ち帰る。


里桜は小さく息を吸い、目の前の老人を見る。


「石黒会長。まずは今期のメインテーマからご説明いたします」

「ああ」


石黒は短く答えた。

里桜は用意していた資料を開き、話し始める。

今期の売上見通し、営業利益、主要事業の成長率、進行中の案件、投資計画、石黒産業との共同案件。


湊が送ってくれた内容は恐ろしいほど整理されていた。

どの数字とどの数字が関連しているのかまで分かるようになっていて、昨夜途中で寝落ちした里桜でも、朝の数時間で最低限の流れを理解できた。

質問もいくつか飛んできた。


「その投資額で、想定する回収期間は?」

「現状では三年を見込んでおります。ただし、第二四半期の推移によっては見直しが必要になるかと」

「競合はどう見る」

「価格競争に入る必要はないと考えています。現状の優位性を維持した方が、長期的な利益率は高いかと」


今の私、湊っぽい。

たぶん。いや、かなり湊だ。

里桜は内心で自分を褒めた。


石黒は黙って聞いている。

最初のうちは、ずっと里桜の顔を見ていた。

資料にはほとんど目を落さない。

数字を聞いても、確認する様子すらない。

ただ、話している里桜の目をじっと見ている。

その視線が、妙に落ち着かなかった。

そして


「…………」


石黒が頬杖をついた。

そのまま、大きく口を開ける。


「ふぁぁ……」


欠伸。


(え)


里桜の頭が真っ白になった。


(や、ヤバい? なんかしくじった?)


里桜は一瞬迷った末、恐る恐る声をかけた。


「石黒会長。何かございましたでしょうか」


石黒の目が、ゆっくりと里桜へ向いた。

手にしていた扇子で、膝をトントンと二度叩く。

そして、里桜ではなく、その隣に座る男を見た。


「神崎君、と言ったな」

「はい」

「高橋湊には、双子の兄弟でもいたかな」

「…………」


里桜の心臓が止まりかけた。


(ヤバい)


神崎もすぐには答えなかった。

眼鏡のブリッジを指で押し上げ、隣に座る「高橋湊」を見る。


「……私の知る限り、社長に双子のご兄弟はいらっしゃいません」

「そうか」


石黒は再び扇子を膝へ当てた。


「では聞くが」


目だけが笑っている。


「これまでわしが欠伸をした程度で、湊が顔色を窺うような素振りを見せたことが、一度でもあったか?」

「…………」


神崎が沈黙した。

その表情はいつも通りだったが、眼鏡の奥の目だけが里桜へ向いている。

この四日間、社長が突然、紙にメモを取り始めた。会議では自分に回答を求めた。これまで即座に断っていた縁談を「考える」と言った。時折、理解不能な発言をする。

そして今、石黒権蔵の欠伸を見てたじろいだ。


神崎自身、この謎の現象の正体を誰よりも知りたい。

そんな視線だった。


(神崎、こっち見んな)


里桜は表情を崩さないよう、必死で耐えた。

石黒はそんな二人を眺めていたが、それ以上追及しなかった。


「まあいい」


扇子が開く。

ぱたぱたと自分を扇ぎながら、石黒は何でもないことのように尋ねた。


「湊、経営の本質とは、何だ」

「…………」


(そんなのまとめてもらった中になかったよ!)


売上高はある。利益率もある。投資回収期間も覚えた。市場分析も頭に入れた。

だが、経営の本質。

そんな抽象的な質問は、一行も書かれていなかった。


(湊っぽいこと。湊っぽいこと……)


利益の最大化、企業価値の向上、持続的成長、株主価値。

それらしい言葉はいくらでも浮かぶ。

たぶん、本物の湊ならそのどれかを、もっと難しい言葉と数字を使って完璧に説明するのだろう。

けれど、里桜は、ふと思った。

自分ならどう答えるだろう。


「……人を、豊かにすることです」


神崎がまたも眼鏡のブリッジを指で上げる。

石黒は動かなかった。


「ほう」

「企業である以上、利益は必要です。利益がなければ会社そのものが続きません。ただ――」


里桜は一度言葉を切った。

もう湊の答えを探すのをやめた。


「ビジネスの中心にいるのは、結局、人間です。商品を作るのも、売るのも、買うのも、働くのも人です。だったら、その事業に関わる人を少しずつでも豊かにしていく。それができなければ、長く続く会社にはならないと思います」


石黒は黙っている。

里桜は急に不安になった。


(……これ、めちゃくちゃ綺麗事だった?)


石黒の扇子が、また膝を叩いた。


「では、利益と従業員の幸福が衝突したらどうする」

「程度によります」


即答した。石黒の眉が僅かに上がる。


「ほう?」

「会社が潰れたら、結局みんな困ります。だから何でも従業員を優先すればいいとは思いません。でも、利益を出すためなら働く人が壊れてもいい、というのも違うと思います」


今日、湊の会社へ向かう車の中で見た数字ではない。

これは、里桜自身が毎日働きながら感じていることだった。


「その間で、一番マシなところを探すのが経営する人の仕事なんじゃないでしょうか」


言ってから気づく。


(しまった)


湊っぽくない。全然、湊っぽくない。

恐る恐る石黒を見る。


「…………」


石黒は黙っていた。

まずい。やっぱり間違えた。

里桜が次の言葉を探そうとした、その時だった。


「くくっ……」

「……?」

「ふっ、はははははっ!」


豪快な笑い声が個室に響いた。

神崎も、眼鏡のブリッジを押し上げている。

だが、その指が途中で止まっていた。

どうやら神崎にとっても、見慣れた光景ではないらしい。


「面白い」


石黒は扇子で膝を叩いた。


「このわしに向かって、そんな青臭い綺麗事を堂々と吐くとはな」


そして目を細める。


「高橋湊」


その呼び方に、里桜の背筋が僅かに伸びた。

石黒は笑っている。けれど、その澄んだ目だけは、まだ里桜を見ていた。

まるで、最初から何かを知っているように。

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