第二十七話:私は高橋湊。私は高橋湊
「まあいい。せっかくの席だ。冷める前に箸を取ろう」
石黒はそれまでの問答を打ち切るように扇子を閉じると、何事もなかったかのように箸を取った。
里桜もそれに倣い、「いただきます」と小さく頭を下げる。
先ほどまで経営の本質などという、湊から渡された資料のどこにも載っていない難題をぶつけられていたせいか、最初の一口を運ぶ手にはまだ少し緊張が残っていた。
けれど、刺身を一切れ食べた瞬間、その緊張が一瞬だけ吹き飛んだ。
(……うまっ)
思わず目を見開く。
舌の上でとろりと脂が溶けて、後から魚の甘みが広がる。
今週に入って高級な料理を口にする機会は何度かあったものの、仕事の話についていくのに必死で、まともに味わう余裕などなかった。
もう一切れ食べる。
やっぱり美味しい。
「くくっ」
向かいから低い笑い声が聞こえ、里桜は顔を上げた。
石黒がこちらを見ていた。
「……何でしょうか」
「いや。随分と、飯を美味そうに食うようになったと思ってな」
里桜は慌てて表情を引き締めた。
本物の高橋湊が会食で刺身を食べて目を輝かせる姿など、どう考えても想像できない。
本人にとって食事は栄養摂取であり、会食ならば仕事上の目的まで付随する。
きっとこの刺身を食べても、タンパク質がどうだの脂質がどうだのと考えているに違いない。
(私は高橋湊。私は高橋湊)
心の中でもう一度唱えてから、何食わぬ顔でもう一切れ口へ運ぶ。
(……やっぱ、うまっ)
美味しいものは美味しい。こればかりは仕方がない。
また石黒が「くくっ」と笑った。
里桜は箸を止め、改めて目の前の老人を見る。
不思議な人だった。
湊から話を聞いた時には、もっと恐ろしい人物を想像していた。
数字に厳しく、判断が速く、曖昧な答えを嫌う。
湊自身が十年近く一度も準備を怠ったことがないというのだから、どんな怪物が現れるのかと思っていた。
実際、会って早々に自分がいつもの高橋湊ではないことを見抜かれかけた。
一瞬の隙も見せられない、決して油断してはならない相手だ。
それなのに、怖くない。
石黒の目は相変わらずこちらをよく見ている。
深く皺の刻まれた顔の中で、その瞳だけは驚くほど澄んでいて、奥底で何を考えているのか全く読めない。
凡人なら、見透かされるようなその視線だけで萎縮しそうなものだった。
だが、値踏みされているようでいて、不思議と嫌な感じがしなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
(あ、この人)
里桜はふと箸を止めた。
(そうだ。この感じ、知ってる)
遠い記憶が蘇る。
母親がなかなか帰ってこなかった幼い頃、里桜は田舎にある祖父母の家で暮らしていた。
家の周りには田んぼが広がり、夏になると青々とした稲が風に揺れた。
秋には辺り一面が黄金色に変わり、冬の朝には吐いた息が白くなる。
古い木造の祖父母宅には独特の匂いがあって、縁側に座れば庭の向こうから鳥の声が聞こえた。
通っていた小学校も中学校も、一学年の人数は少なかった。
同級生はずっと同じような顔ぶれで、誰が誰を好きだとか、昨日誰が先生に怒られたとか、そんなくだらないことまで皆が知っていた。
高校生になり、アルバイトができる年齢になった頃、母親が迎えに来た。
それからは祖父母と暮らすこともなくなったが、里桜にとってあの場所は今でも自分が育った大切な場所だった。
祖父が亡くなったのは去年だ。
何かできるようになるたびに褒めるわけでもなく、失敗したからといって頭ごなしに叱るわけでもない。ただ少し離れたところから、面白そうに自分を見ていた。
目の前の石黒の視線は、あの頃の祖父によく似ていた。
(……そっか)
だから、どこか落ち着くのかもしれない。
張り詰めていた肩の力が、すっと抜けていく。
産業界のドンという肩書きも、高橋湊としての重圧も、今の里桜にはもう関係なかった。
完璧な社長の仮面をほんの少しだけ緩め、彼女はもう一度、心から美味しそうに刺身を頬張った。




