第二十八話:僕の身体でてへぺろをするな
「湊」
石黒の声に、里桜は我に返った。
「お前自身が、これからやりたいことは何だ?」
石黒は料理へ箸を伸ばしながら、何でもないことのように続けた。
「売上をいくらにする、利益を何%伸ばす、会社をどこまで大きくする。そういう数字の話はもう聞き飽きた。お前自身は、この先何がしたい」
里桜は少し考えた。
また、湊の資料にはない質問だった。
けれど先ほどとは違い、必死になって「湊なら何と答えるか」を探す気にはならなかった。
何がしたい。
そう聞かれて、ふと思い浮かんだのは、先ほど思い出した田舎の風景だった。
祖父母の家、田んぼ、そして、もう今はない学校。
少子化で統合され、自分が通った小学校も中学校も廃校になったと聞いている。
「……昔通っていた学校が、廃校になってるんです」
口にしてから、里桜は一瞬だけしまったと思った。
高橋湊の昔の学校ではない。
「例えば、の話ですが」
何食わぬ顔で誤魔化す。
「使われなくなった学校って、全国に結構ありますよね。ああいう場所を使って、何かできたら面白いと思います」
「何かとは?」
「そうですね……」
里桜は少し考えた。
学校という場所は、誰にとってもどこか懐かしい。
大人になれば、廊下も教室も机も椅子も小さく感じる。
それなのに、そこへホテルのような非日常の要素が入れば、知っている場所なのに知らない場所になる。
「リゾートとか」
石黒の箸が止まった。
「廃校を?」
「はい。教室を客室にしたり、給食をちょっと豪華にして出したり、体育館や校庭もそのまま使えますよね。大人には懐かしいけど、泊まったことはないから新鮮だと思うんです」
話しながら、里桜の頭の中で少しずつ形になっていく。
「学校って、ほとんどの人が通ったことがあるじゃないですか。だから初めて行く場所でも、何となく懐かしい。地元の食材を使ったり、地域の人に働いてもらったりできれば、建物を壊さずに済むし、観光客も呼べるかもしれない」
石黒は何も言わない。
里桜はそこでようやく、自分が随分長く喋っていたことに気づいた。
「……まあ、採算が取れるかは分かりませんけど」
その瞬間、隣から神崎の鋭い視線を感じた。
(あ)
高橋湊なら絶対に最後の一言は言わない。
里桜はそっと刺身へ逃げた。
石黒はしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「ふむ」
石黒は賛成とも反対とも言わず、また料理へ箸を伸ばす。
里桜も深く考えず、刺身を食べた。
しばらくして、石黒が湯呑みを持つ。
その時、里桜の視線が、石黒の左手で止まった。
指先の皮膚が、少し硬くなっている。
(ん?)
仕事でできるような場所ではない。見覚えがあった。
「石黒会長」
「何だ」
「ギター、弾きます?」
石黒の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、今まで何を聞いても悠然としていた老人が明らかに反応したのを、里桜は見逃さなかった。
「……なぜそう思う」
「指です」
里桜は自分の左手を出し、同じ場所を指差した。
「そこ、硬くなってますよね。弦押さえてる人って、そんな感じになりません?」
石黒が自分の指先へ視線を落とした。
「誰から聞いた」
「誰からも」
「神崎君か?」
突然話を振られた神崎が、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「いえ。私も初耳でございます」
「…………」
石黒が黙った。
里桜は目を丸くする。
「え、本当にギターなんですか?」
「…………」
「へえ」
改めて石黒を見る。
袴姿、白髪交じりの髪、立派な髭、産業界のドン。石黒権蔵、五十八歳。
その指で、誰も知らないところでギターを弾いている。
(なんだ、このおじじ)
思わず口元が緩んだ。
(結構、少年じゃん)
「何弾くんですか?」
「言わん」
「なんでですか」
「なぜお前に教える義理がある」
「別にいいじゃないですか」
「断る」
ぷい、と石黒が顔を逸らした。
威圧的な低い声とは裏腹に、その仕草が妙に子供っぽくて、里桜は吹き出しそうになる。
気づけば、さっきまであった緊張はほとんど消えていた。
湊が十年近く毎月会い、あれほど警戒していた産業界のドンも、こうして向かい合ってみれば一人の人間なのだ。
そう思うと、急にお腹まで空いてきた。
里桜は最後に残っていた刺身を口へ運ぶ。
やっぱり美味しい。
「すみません」
控えていた仲居に声をかける。
「はい」
「このお刺身、すごく美味しいですね。おかわりいいですか?」
隣で、神崎が眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
里桜は横を見る。
神崎が限界まで見開かれた目でこちらを見ている。ここは老舗料亭。出されているのは懐石のコース料理である。
「…………」
「…………」
何だ。その目は。
「くっ……」
今度は向かいから声がした。
見ると、石黒が口元を押さえている。
「ふっ……くくくっ……」
肩が震えていた。
「ふはっ……ははははっ……!」
「え、何ですか?」
「はーっ、はっはっはっ……!」
石黒が腹を抱えた。
顔を赤くし、息を吸おうとしているのに笑いが止まらないらしい。
「お、お前……っ、料亭で刺身の……おかわり……!」
「美味しいんだから仕方ないじゃないですか」
「くっ……はははっ! そうか、そうか! いいぞ、好きなだけ食え!」
何がそんなに面白いのか、里桜にはさっぱり分からない。
隣を見る。
神崎はまた眼鏡のブリッジを押し上げ、何とも言えない虚無の顔でこちらを見ていた。
四日間散々見てきた顔だ。
里桜は神崎へ向かって、にこっと笑った。
そして片目を閉じ、ほんの少し舌を出す。
てへぺろ。
神崎の指が、眼鏡のブリッジで完全に静止した。
「…………」
「ぶっ!」
それを見た石黒が再び噴き出した。
「ひーっ、ははははっ! お前……っ、お前、今日は一体どうしたんだ! 腹が、腹が痛いわ!」
「失礼ですね。今日の僕は絶好調ですよ」
しれっと答え、里桜は運ばれてきた刺身へ箸を伸ばした。
神崎は無言で眼鏡を押し上げる。
石黒はまだ腹を抱えて笑っている。
そんな二人を前に、里桜は満足そうに刺身を頬張った。




