第二十九話:じゃあ――。
石黒権蔵との会食をどうにか乗り切ったあとも、里桜に休む暇はなかった。
会社へ戻り、午後の予定をこなし、神崎に助けられながらいくつかの案件を処理する。
そうして一日の仕事を終えた頃には、朝から張り詰めていた緊張もようやく解けていた。
一方、湊も里桜として金曜日の勤務を終えていた。
石黒との会食について、湊にできることは何もなかった。
必要な数字も想定質問も送った。注意事項も伝えた。昨夜は説明している途中で里桜に寝落ちされたものの、朝には最低限必要な情報を整理して送り直した。
できる限りの準備はした。あとは神に祈るのみ。
合理性を信奉してきた三十二年間の人生で、自分が神頼みに行き着く日が来るとは思わなかった。
その日の夜。
『大丈夫だったよ、おじじ』
電話が繋がるなり、里桜はそう報告した。
「おじじと呼ぶな。石黒会長だ」
『本人には言ってないよ』
「当然だ。言っていたら今頃、会社が一つ消滅している」
『ちゃんと仕事の話もしたし、ご飯も食べたし。何とかなった』
「僕が確認したいのは、君が昼食を摂取できたかどうかではない」
『分かってるって。大丈夫、大丈夫』
何を根拠に大丈夫だと言っているのか、湊には分からなかった。
十年近い付き合いのある石黒が、五日間で別人のように変化した「高橋湊」を見て、何の違和感も抱かなかったとは到底考えられない。
だが、少なくとも里桜は無事に午後の業務まで終え、会社にも石黒産業にも目立ったハレーションは起きていないらしい。
「……ならいい」
『湊は? 今日どうだった?』
「特筆すべきトラブルはない」
また、嘘をついた。
里桜の勤務先には改善すべき労働環境のバグが山ほどある。
あの毒親の件も、マサトの件もある。
だが、それを今ここで話すつもりはなかった。
そこから二人の会話は、いつものように取り留めのないものへ変わっていった。
今日対応した客の話、昼食の話、里桜が石黒との会食で食べた刺身が美味しかったという話。
湊が冷蔵庫に残っていた里桜の作り置きを完全に消費してしまったという話。
月曜日の夜なら、こんな生産性のない会話に時間とリソースを使う意味など理解できなかっただろう。
あの夜は、互いの生活に必要な情報を交換するために電話をした。
火曜日も、水曜日も、最初はそうだった。
それが五日目ともなると、どこからが必要な報告で、どこからがただの雑談なのか、もう完全に境界線が消失していた。
そして湊は、それを切り上げようとも思わなくなっていた。
『そういえばさ』
「なんだ」
『お互い、明日休みだよね』
「そうだな」
明日は土曜日。里桜も休みで、湊にも出社の予定はない。
電話の向こうで、里桜が少し黙った。
『じゃあ、私たちさ、あ――』
その声が途中で途切れた。
「佐伯?」
突然、視界が白く染まった。
何が起きたのか論理的に解釈するより先に、平衡感覚が消滅した。
身体の輪郭が曖昧になり、自分が立っているのか座っているのかすら分からなくなる。
遠くで、里桜が自分の名前を呼んだような気がした。
そこで、湊の意識は途切れた。
◇◇◇
次に目を開けた時、朝だった。
湊はしばらく天井を見つめていた。見慣れた天井だ。
身体を起こすと、視線が高い。
自分の手を見る。大きく腕も長い。
寝室を出て、そのまま洗面台の鏡へ向かう。
黒い髪、見慣れた顔、見慣れた身体。
高橋湊だった。
「……戻ったのか」
声も、自分のものだった。
月曜日の朝から始まった異常事態が、五日目の金曜日を終えたところで、何の前触れもなくエラーが解消されたらしい。
湊は自宅を見渡した。
五日ぶりに自分の身体で見る自分の家は、記憶していた初期状態と少し違っていた。
ソファには見覚えのないクッションが増えている。
テーブルの上にも、里桜がこの数日間使っていたらしい物が残っていた。
モデルルームのように無機質だった空間に、僅かだが人間が暮らした痕跡がある。
それよりも先に気づいたことがあった。
香りがしない。
あの小さな部屋に染みついていた、柑橘系の爽やかさの中に、ほんの僅かに甘さが混じる香り。
月曜日には他人の家の匂いだった。
いつの間にか、帰宅すると自然に感じるようになっていた。
「…………」
自分の家だ。自分の身体だ。ようやく戻った。
それなのに、胸の奥に得体の知れない欠落感がある。
(……妙に静かだな)
なぜそう感じるのか、湊はあえて分析することをやめた。
◇◇◇
同じ頃。
里桜も自分の部屋で目を覚ましていた。
「…………ん?」
目の前にある手を見つめる。小さい。
身体を起こし、慌てて胸元へ視線を落とす。
「…………戻ってる!」
ベッドから飛び降り、鏡の前まで走った。
そこにいたのは、五日ぶりに見る佐伯里桜だった。
「うわぁ……私だ」
頬を触る。髪を触る。鏡の中の自分も同じ動きをする。
間違いない。本当に戻った。
あれほど自分の身体に戻りたいと思っていたはずなのに、いざ五日間が終わってしまうと、嬉しいだけではなかった。
「……ついに戻っちゃったか」
解放されたような、少し残念なような。自分でもよく分からない。
里桜は部屋を見渡し、すぐに別の違和感に気づいた。
「……めっちゃ綺麗になってる」
床に物がない。テーブルの上も整理されている。
適当にまとめていた充電器やコード類まで、種類ごとに分けて完璧に束ねられていた。
「湊、几帳面すぎん?」
思わず笑った。
自分の部屋なのに、そこかしこに五日間ここで暮らしていた湊の痕跡が残っている。
昨夜のことを思い出す。
『お互い、明日休みだよね』
そのあとに言おうとしていた言葉も覚えていた。
「…………まあ、いっか」
里桜はベッドへ腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。
◇◇◇
一方、湊は入れ替わりが解けたことを確認すると、即座に身支度を始めていた。
土曜日。本来なら出社する予定はない。
だが、五日ぶりに袖を通した自分のシャツに腕を通し、スーツを身につけ、時計を着ける。
向かう先は会社だった。
里桜が高橋湊として過ごした五日間。
その間に保留された案件、判断された事項、交わされた連絡、神崎とのやり取り。
まずはすべて確認する必要がある。
だが、それだけではなかった。
湊はスマートフォンを取り出した。
五日間、自分が実際に働いた里桜の勤務先。
業務量、評価制度、人員配置、教育体制、クレーム対応、特定の人間への過度な依存。そして、それに対する待遇。
経営者として見れば、答えは単純だった。
労働分配率とマネジメントが完全に破綻している。
ならば、修正する。その方法も、すでに決めている。
さらに、佐伯里桜の生活に継続的なリスクを与えている二つの害悪。
母親と、マサト。
こちらも放置するつもりはなかった。
法と権力と圧倒的な資本を用いて、二度と彼女の視界に入らないよう完全に社会から隔離する。
どちらも、里桜に話す必要はない。
彼女が知る必要もない。
湊は玄関を出た。
月曜日の朝まで、自分とは何の関係もなかった会社。名前すら知らなかった女。
たった五日間。
なのに今、その女の職場環境も、生活も、安全も、高橋湊が処理すべき最優先タスクの中に当然のように組み込まれている。
――僕が彼女を守る。これは合理的判断だ。
本人だけが、その底知れぬ独占欲と愛情の異常さに、まだ気づいていなかった。




