第三十話:冷徹サイボーグ社長、復活
土曜日と日曜日。
高橋湊は、一歩も外へ出ず自宅の書斎に籠もっていた。
複数のモニターには財務資料、事業構造、人員配置、市場規模、対象企業のCRM(顧客関係管理)データが並び、その横では新たに作成した資料が恐ろしい速度で更新されていく。
必要な情報を洗い出し、数字を組み替え、複数のパターンで収益性を試算する。
法務、財務、税務、それぞれに必要となるデューデリジェンス(資産査定)の調査項目を整理し、想定されるリスクと対応策まで先回りしてすべて潰していった。
通常なら半年以上を見込むプロジェクトだ。
だが、そこまで待つつもりはなかった。
三か月。
湊はモニターに表示された工程表を見ながら、指先で机を二度叩いた。
不可能ではない。少なくとも、数字の上では。
そして月曜日。
週明けの役員会議は、開始から四十分を過ぎても空気が張り詰めていた。
「私は反対です」
役員の一人が資料を机へ置いた。
「確かに市場との親和性はあります。しかし、現時点でここまで急ぐ理由が見えません。今期は既存事業への投資も予定しています。わざわざこのタイミングで新たな案件を抱える必要があるのでしょうか」
「必要があるから提案している。戦略的資本配分の最適化だ」
湊は表情一つ変えなかった。
「ですが、三か月という期間は現実的ではありません」
「何を根拠に?」
「何を、と言われましても……通常であれば最低でも半年程度は――」
「『通常』という言葉は根拠にならない。君の主観を会議に持ち込むな」
会議室が静まり返った。湊は手元の資料すら見ていない。
「現在の手元資金、今期のキャッシュフロー、既存案件への投資予定額を差し引いても財務余力は十分にある。対象事業の直近三期の推移から算出した場合、保守的に見積もっても統合後二年以内に収益改善が可能だ」
「しかし、人員の問題もあります」
「必要リソースはすでに算出している。既存部署から十二名。外部から五名。初期段階ではそれで足りる」
「それでは既存部署に負担が――」
「発生しない。十二名を抜いた場合の各部署の稼働率への影響も計算済みだ。資料の二十七ページを参照しろ」
役員が慌ててページをめくる。湊は絶対零度の声で淡々と続けた。
「懸念があるなら、感覚ではなく数字で示せ。期間が短い、前例がない、通常ではない。それらはすべてただの『感想』だ。僕が聞きたいのは、この計画によって具体的にどのKPI(重要業績評価指標)が、どの程度悪化するのかというデータだけだ」
誰も答えなかった。
「ないなら次へ進む」
冷たい声だった。
反対意見を封じているわけではない。
むしろ湊は反論を歓迎する。
ただし、その反論には厳密な根拠を要求する。
数字を出せば数字で返され、リスクを指摘すればすでに対策が用意されている。
感情論や慣例を持ち出した瞬間、その議論は彼の中でノイズとして検討対象から除外される。
「三か月を前提に進める。今週中に必要な調査を開始する。法務と財務には今日中に僕から指示を出す」
それが結論だった。
「次の議題へ」
湊が資料を閉じる。
神崎はその横顔を見ながら、そっと眼鏡のブリッジを押し上げた。
どこから見ても、隙のない、いつもの高橋湊だった。
◇◇◇
会議が終わり、役員たちが退出していく。
最後の一人が扉を閉めると、神崎が静かに口を開いた。
「安心いたしました」
湊は手元のコーヒーへ手を伸ばした。
「何がだ?」
「社長が、元の社長に戻られたようですので」
湊の手が止まる。
「どういう意味だ」
「先週は少々、普段とは異なるご様子でしたから」
「具体的に言え」
神崎は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「石黒会長との会食の際には、ご自身の顔でウインクをしながら、てへぺろをされていたと記憶しております」
「…………は?」
湊は神崎を見た。神崎の表情は極めて真剣だった。
「てへぺろ?」
「はい」
「僕が?」
「はい」
氷のような沈黙が落ちた。
湊の脳裏に、満面の笑みで片目を閉じ、舌を出す佐伯里桜の姿が浮かぶ。
次の瞬間、それが『高橋湊の顔』に置き換わった。
「…………」
湊は無言でコーヒーを一口飲んだ。
聞かなかったことにした。
「神崎」
「はい」
「縁談の件は断る」
唐突な話題転換にも、神崎は一切動じなかった。
「承知いたしました」
「政略結婚などという脆弱なシステムに頼るほど、我が社の経営体質は軟弱ではない。先方との関係維持に婚姻という担保が必要だというなら、そもそもその関係自体が健全ではない」
「では、そのようにお伝えいたします」
神崎はタブレットへ記録した。
それで話は終わるはずだった。
だが、神崎は眼鏡のブリッジを押し上げると、湊を見た。
「社長」
「なんだ」
「現在、お付き合いされている方はいらっしゃるのですか」
湊は僅かに眉を上げた。
今までなら即答していた。いない。それだけで終わる質問だった。
だが、なぜか今回は一人の女が脳裏に浮かんだ。
湊の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
「君が知る必要はないだろう」
「…………」
神崎の指が、ゆっくり眼鏡のブリッジを押し上げた。
その目が何を言いたいのか、今度ばかりは湊にも分かった。
「余計な詮索はするな」
「何も申し上げておりません」
「顔に出ている」
「失礼いたしました」
まったく失礼したと思っていない声だった。
湊は再びコーヒーへ口をつける。
その口元には、自分でも気づかないほど微かな笑みが、まだ残っていた。




