第八話:相手が変われば、正解も変わる
しばらくして、佐藤が椅子ごとこちらへ寄ってきた。
「ねえ、里桜」
「何だ」
「また『何だ』って言ってるし」
「……何?」
「昨日までそんな喋り方じゃなかったよね?」
湊は黙った。
これ以上、不自然な言動を重ねるべきではない。
「少し寝不足で」
「寝不足で人格変わる?」
「低血圧の影響かもしれない」
「そんな万能なの、低血圧」
佐藤は納得していない様子だったが、それよりも湊には確認したいことがあった。
「佐藤さん」
「何?」
「さっきのような客に対して、佐伯は普段どう対応している?」
「里桜?」
「そうだ。具体的な話し方を知りたい」
佐藤は腕を組んで考え込んだ。
「うーん……あ、じゃあ自分の通録聞いてみたら?」
「通録?」
「通話録音。過去の対応、残ってるよ。里桜って二次対応いっぱいやってるから、似たようなの探せばあるんじゃない?」
それが最も合理的だ。
他人から曖昧な説明を受けるより、実際の対応を確認した方が早い。
「聞きたい」
「即答じゃん。ちょっと待ってね」
佐藤は湊のパソコンを覗き込み、慣れた手つきでシステムを操作した。しばらく履歴を遡ったあと、「これとか似てるかも」と一件の通話記録を開く。
ヘッドセットから聞こえてきたのは、今朝から嫌というほど耳にしている里桜の声だった。
『お電話代わりました。佐伯でございます』
続いて、女性客の怒鳴り声が響く。
『だからさっきから言ってるでしょ! そっちの説明が分かりにくかったからこうなったんじゃない!』
内容としては、先ほど湊が対応したものと大差ない。規約上、会社側に明確な過失はなく、顧客の要求にも応じられない案件だった。
ならば最終的な回答は同じになるはずだ。
湊はそう考えながら続きを聞いた。
『そうですよね。何回も同じ説明されたら、「もうそれは分かったから」ってなりますよね。何度もお話しいただいてすみません。私が最初から確認しますね』
湊の眉が僅かに動いた。
謝罪している、だ、会社側の非を認めてはいない。
里桜が謝ったのは、顧客が何度も同じ説明をさせられていることに対してだった。
先ほどまで怒鳴っていた女性の声が、少しだけ落ち着く。
『そうなのよ。私だって別に怒りたくて電話してるわけじゃないの』
『ですよね。お時間も取らせてますしね。ちなみに、一番納得できないのって、キャンペーンが使えないことですか? それとも最初の説明のところですか?』
『説明よ。最初からちゃんと言ってくれてたら、こんなに腹立ってないわよ』
『ああ、なるほど。そこなんですね』
その瞬間、里桜の声が変わった。
先ほどまでの申し訳なさそうな柔らかい声から、少しだけ落ち着いた低めの調子になっている。
『じゃあ、キャンペーン自体は期間の関係でどうしても適用できないんですけど、最初のご案内については私の方で履歴を確認して、分かりにくい案内がなかったか確認しますね』
『……うん。それならいいけど』
湊は無意識にモニターへ視線を向けた。
今の数十秒で、何が起きた。
里桜は顧客の要求を受け入れていない。キャンペーンを適用するとも言っていないし、会社側に過失があるとも認めていない。
変えたのは、会話の順番だけ。
結論を伝える前に相手の不満を聞き、その不満が「要求を通したい」のか「対応そのものに腹を立てている」のかを切り分けた。
さらに、相手の声量が落ちた瞬間に自分の声色まで変えている。
湊は通話を少し巻き戻す。
「ちょっと、もう一度聞く」
「え? うん」
同じ部分を再生する。
顧客が強い口調で話している間、里桜は普段より僅かにゆっくり話している。相手の言葉を遮らず、短い相槌だけを挟み、声量が落ち始めたところで初めて質問を入れている。
そして相手が『説明よ』と答えた瞬間から、会話の主導権を取っていた。
「……意図的なのか?」
「何が?」
「話す速度と声の高さを変えている。それに、最初から解決策を提示していない。相手が自分で不満の原因を口にするまで待っている」
佐藤はぽかんとした顔で湊を見る。
「そんなことしてる?」
「している」
湊は別の通録を開いた。
今度は男性客だった。先ほどとは違い、声を荒らげてはいないが、低い声で延々と皮肉を並べている。
その相手に対する里桜の声は、先ほどの女性客への対応とはまるで違った。
『おっしゃる通りです。そこは分かりにくいですよね』
『そうだろ? 普通そう思うよな』
『はい。なので、ここから先はできることとできないことを分けてお話ししますね』
柔らかいが、先ほどよりテンポが速い。
相手が理屈を重視していると判断したのか、余計な謝罪も少なかった。
さらに別の通録では、里桜はひたすら相手の話を聞いていた。
相手が十分ほど不満を吐き出したあと、最後にはなぜか世間話まで始まり、電話を切る頃には『お姉さんに怒っても仕方ないよね、ごめんね』と客の方が謝っている。
湊は無言でヘッドセットを外した。
「どう?」
佐藤に聞かれ、少し考える。
「佐伯は、相手によって対応方法を変えている」
「まあ、そうだね」
「声量、話す速度、言葉遣い、謝罪を入れるタイミングまで違う。相手が何を要求しているかだけではなく、なぜ怒っているのかを先に判断している」
佐藤は目を瞬いた。
「……そこまで考えてるんだ、里桜」
「考えていないのか?」
「……」
「では、どうやって判断している?」
「知らないよ。自分で振り返ってみたら?」
「今は聞けない」
「え?やっぱり今日の里桜、変だよ。まるで別人みたい。柔らかさがないって言うか」
「いや」
湊は咳払いをして誤魔化した。
佐藤はしばらく首を傾げていたが、やがて「ああ」と何かを思い出したように手を叩いた。
「でも前に聞いたことあるよ。クレーム対応うまいよねって。そしたら里桜、『怒ってる人に正論ぶつけても余計怒るだけじゃん。とりあえず何に怒ってるのか聞けばいいんだよ』って言ってた」
「…………」
湊は先ほど自分がした対応を思い返した。
事実を確認し、規約を説明し、要求に応じられない理由を示した。
論理的には何一つ間違っていない。
それでも顧客は、さらに怒った。
一方、里桜も最終的には同じ結論を伝えている。それなのに相手は納得して電話を切っている。
「感情を処理してから、論理を提示しているのか」
「え?」
「いや。そういうことか」
湊は再び通録を再生した。
里桜の対応は、決して適当なアドリブではなかった。
相手の声から感情を読み取り、怒りの原因を探り、それに合わせて自分の声や話し方まで変える。必要なら申し訳なさそうに、時には親しげに、相手によっては淡々と。そうして感情を落ち着かせてから、初めて現実的な解決策へ話を進めている。
マニュアルに書かれていないのも当然だった。
相手が変われば、正解も変わる。
そして、それを佐伯里桜はほとんど無意識にやっている。
「……なるほど」
湊は小さく呟いた。
少なくとも、自分にはない能力だった。




