第六話:神崎の災難
「フフフーン、男の身体って最高だねー」
湊の極上の低音ボイスで軽快に鼻歌を歌いながら男子トイレを出た里桜は、通路の曲がり角でタブレットを抱えた神崎とばったり鉢合わせた。
神崎は目を見開いたまま、微動だにしない。
「社長。今、鼻歌を歌っておられましたか」
「…………」
(聞かれた)
内心では盛大に焦りながらも、里桜はわざとらしく低い声で咳払いをした。
「これは呼吸法のトレーニングだ。副交感神経を優位にし、これからの会議に向けて脳波をアルファ波に調整しているんだよ。神崎くんもやってみるといい」
「…………左様でございますか」
神崎は完全に理解不能という顔をしたまま、それ以上追及することなく深く一礼した。
昨日までの里桜なら絶対に使わなかったであろう単語を並べておけば、それなりに湊らしく聞こえるらしい。
里桜は早くも間違った成功体験を積み始めていた。
神崎とともに社長室へ向かって歩き出したところで、今度は別の違和感に気づいた。
湊の視界は、里桜が普段見ている世界よりも明らかに高い。
廊下を歩いているだけなのに、案内板も照明も妙に近く感じられ、何より自分の身体がどこまであるのか、まだ感覚が掴めていなかった。
社長室の入口へ差しかかった瞬間、視界の上端へドア枠が迫ってくる。
「うわ、頭ぶつかる」
実際には十分な高さがある。
しかし、慣れない百八十二センチの視点に距離感を誤った里桜の身体は、反射的に動いた。
上半身を大きく後ろへ反らす。
長身で鍛え上げられた湊の肉体が、まるで映画のアクションシーンのような華麗なスウェーバックを披露し、そのまま何事もなかったかのようにドア枠を通過した。
後ろを歩いていた神崎が、再び足を止める。
「…………」
本日何度目かの沈黙だった。
何事もなく社長室へ生還した里桜は、重厚な革張りのエグゼクティブチェアへ深く腰を下ろした。
広々としたデスクの上には複数のモニターと整然と並べられた資料があり、座っているだけなら自分がものすごく仕事のできる人間になったような気がしてくる。
里桜は先ほど必死に予定を書き込んだ真新しい手帳を開き、真面目な顔で傍らに立つ神崎を見上げた。
「神崎くん。役員会議って何するんだっけ」
神崎の手から、タブレットが滑り落ちかけた。
「……社長。役員会議は経営上の重要事項について協議し、意思決定を行う場です。本日は第二四半期の重要課題と、今後の投資戦略についての協議が予定されておりますが」
「オッケー。要するに、みんなの話を聞いて最後に私が決めればいいんだね。任せて」
「…………」
湊の顔で爽やかなイケメンスマイルを浮かべる里桜を前に、神崎はしばらく何も言わなかった。
『分からないことがあれば神崎を頼れ』
昨夜、湊本人からそう言われている。ならば神崎がそばにいる限り、なんとかなるはずだ。
「……もう時間か」
里桜は立ち上がると、神崎に案内されて役員会議室へ向かった。
重厚なマホガニーの扉の前まで来ると、さすがの里桜も少し緊張してきた。
これから会うのは、高橋湊とともに会社を動かしている役員たちである。
コールセンター勤務の自分が、本来なら一生入ることすらなかったであろう場所だ。
それでも里桜の胸の内には、根拠のない自信があった。
(まあ、なんとかなるでしょ!)
神崎が扉を開けると、巨大な会議卓を囲むように役員たちがずらりと並んでいた。
里桜が入室した瞬間、それまで交わされていた会話がぴたりと止まり、一斉に視線が集まる。
もちろん、自分が一番偉い。
里桜はその事実だけを心の支えに堂々と上座へ向かった。
エグゼクティブチェアに腰を下ろし、見よう見まねで長い脚を組む。
「では、始めてくれ」
自分でも驚くほど、それらしい声が出た。
会議が始まると、さっそく営業担当の役員がプロジェクターに資料を映し出した。
「社長。今期の新規プロジェクトAですが、サプライチェーンのボトルネックと為替のネガティブインパクトにより、ローンチが当初の予定より二週間遅延し、さらに予算を五パーセントほど超過する見込みです」
(サプライ……ボトル……ネガティブ……?)
開始早々、分からない言葉が多すぎる。必死に自分の知っている日本語だけを拾い集めてみる。
(二週間遅れて、予定よりお金がかかるってこと?)
たぶん、それで合っている。問題は、ここから何を言えばいいのかだった。
ここで「分かりません」と言えば、高橋湊の威厳が地面にめり込む。
考える。
こういうとき、職場ではどうしていた?
原因不明のミスが起きたとき。数字が合わなかったとき。クレームが発生したとき。
上司から最初に聞かれることは、大体同じだった。
里桜は湊の低い声をさらに一段落とし、ゆっくりと口を開いた。
「……なんでそうなった」
会議室が静まり返った。
里桜としては、本当に理由が分からないから聞いただけだった。しかし、営業担当役員の顔から見る見る血の気が引いていく。
「申し訳ございません。初期フェーズにおけるリソースの最適化が不十分であったことに加え、ベンダー側とのシナジーを十分に構築できなかったことが主因かと――」
(シナジー! また分からない言葉出てきた!)
聞けば聞くほど分からなくなる。里桜はしばらく真剣な顔で説明を聞いていたものの、やがて自力での解決を諦めた。
そして、すぐ隣に控えている神崎を見る。
里桜はエグゼクティブチェアの背もたれへ深く身体を預け、いかにも何かを見透かしているような表情を作った。
「神崎」
「はい」
「……今までの私なら、これに対してどう答えるか言ってみてくれ」
「…………」
会議室の空気が変わった。
役員たちは一斉に神崎へ注目した。社長が、自ら答えを出す前に腹心である秘書の理解度を試している。少なくとも彼らの目には、そう映っていた。
一方の神崎は、無表情を保ちながら必死に頭を働かせていた。今日の高橋湊は絶対に何かがおかしい。
それでも神崎は、高橋湊の秘書を務めるほどの男である。これまでの湊の判断基準や思考パターンを瞬時に組み立て、やがて静かに口を開いた。
「……社長であれば、ベンダーとの連携不足を理由にはなさらないでしょう。直近のデータから見ても、リスク管理が不十分だったことは明白です。本日十七時までに予算超過分を相殺する具体的なコスト削減案と、遅延を一週間以内に抑えるための人員再配置案を提出するよう指示されるかと。対応できなければ、プロジェクトそのものの継続可否を再検討されると思われます」
神崎が眼鏡をクイッと上げて言い終えると、営業担当役員は青ざめながら猛烈な勢いでメモを取り始めた。
里桜も内心では別の意味で青ざめていた。
(神崎くん、すごすぎる! というか湊、いつもこんな怖いこと言ってるの!?)
しかし、ここまで来たら乗っかるしかない。里桜は表情を崩さず、満足げに深く頷いた。
「……その通りだ。神崎の言う通りに進めたまえ」
「承知いたしました。直ちに対応いたします」
一件目、突破。
その後も里桜は、理解できない報告が出るたびに
「それで原因は?」「つまり、何が問題なんだ?」「神崎はどう思う?」
という極めて単純な質問を繰り返した。
ところが、普段の湊があまりにも複雑かつ論理的に物事を詰めるせいなのか、役員たちはその簡潔すぎる質問にすら勝手に深い意図を見出していく。
「つまり何が問題なんだ?」
「……! おっしゃる通りです。論点を整理いたします」
(いや、普通に聞いただけなんだけど)
里桜は何度もそう思ったが、誰も気づかない。
そして回答に困れば神崎を見る。
最初こそ戸惑っていた神崎も、三度目になる頃には里桜が視線を向けただけで一歩前へ出て、必要な論点を整理するようになっていた。
(神崎くん、めちゃくちゃ頼りになる!)
気づけば、先ほどまで感じていた緊張などすっかり消えていた。報告を聞いて、分からなければ質問する。それでも分からなければ神崎に聞けばいい。
里桜はすっかり気を良くし、エグゼクティブチェアから身を乗り出した。
「さあ、この調子でガンガン行くぜ! よし、次! 次の報告は!?」
会議室が静まり返った。
極上の低音ボイスから放たれた「ガンガン行くぜ」という、あまりにも体育会系すぎる謎のフレーズ。
やけにキラキラとした瞳で次の報告を急かす社長の姿。
役員たちが一斉に目を瞬き、神崎は無言で眼鏡を押し上げた。
「…………」
本日何度目か分からない神崎の沈黙だった。
こうして里桜は、「なんでそうなった」という魔法の言葉と神崎への華麗な丸投げを駆使しながら、会社の未来を左右する役員会議を奇跡的に乗り切っていった。




