第五話:記憶のバックアップだ
役員専用エレベーターの扉が開くと、そこには一人の男が待っていた。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
隙のないダークスーツに身を包み、手にはタブレット。
センター分けの髪型で、眼鏡をクイッと持ち上げる男性。
里桜が姿を現すと、男はスマートに一礼した。
「おはようございます、社長」
「…………」
(誰)
里桜の背中に冷たい汗が流れた。
しかし、男はそんな里桜の動揺など知る由もなく、当然のように隣へ並ぶと歩き始めた。
「本日のスケジュールをご報告いたします。十時より役員会議、十三時からA社役員との会食、十五時に第二四半期予算案の最終決裁をお願いいたします。その後、十六時三十分より経営企画部から新規事業計画について――」
「ちょ、ちょっと待って」
男の足が止まった。
里桜は慌てて咳払いをする。
「……神崎くん」
昨日、湊から聞いた名前を思い出した。
『僕の会社では、分からないことがあれば秘書の神崎を頼れ』
間違いない。この男が神崎だ。
「はい」
「少し読み上げるのが早いな」
「…………」
神崎の眉が、ごく僅かに動いた。
里桜はそんな変化に気づく余裕もなく、スーツの内ポケットから手帳とボールペンを取り出した。
「えーっと……十時が、偉い人たちと会議」
さらさらと書き込む。
「十三時は……ご飯」
さらに書く。
「十五時は予算案の決裁……っと。よし、書いた。次をお願いしよう」
「…………」
返事がない。
里桜が顔を上げると、神崎はタブレットを手にしたまま完全に停止していた。
「神崎くん?」
「……社長」
「何かな」
「メモを、取っておられるのですか?」
「…………」
(まずかった?)
神崎の知る高橋湊は、一度聞いた数字や予定を忘れることがない。
会議の日程はもちろん、取引先の売上高、利益率、過去の契約条件まで正確に記憶している。少なくとも神崎が秘書になって以来、彼が自分の予定を手帳に書き留める姿など一度も見たことがなかった。
神崎の視線が、里桜の手元へ落ちる。
そこには丸みを帯びた文字で、
『10時 偉い人たちと会議』
『13時 A社の人とご飯』
『15時 予算のやつ』
と書かれている。
(…………)
神崎は静かに視線を上げた。
「これは……」
頭をフル回転させる。
そして昨日から里桜が絶大な信頼を寄せている、魔法の概念。
(横文字!)
「記憶のバックアップだ」
「……バックアップ」
「そうだ。物理的なデータ保存として、念のためアナログ手法も取り入れることにした」
「…………」
「そうだ。リスクヘッジというやつだよ、神崎くん。決して予定が覚えられないわけではない」
昨日覚えたばかりの横文字まで総動員して言い切ると、里桜は何事もなかったかのように手帳を内ポケットへ戻した。
「さあ、続きをお願いしよう」
「……承知いたしました」
神崎は僅かな沈黙のあと、再びタブレットへ視線を落とした。
「十五時半より法務部からM&A案件の進捗報告、十六時三十分より経営企画部と新規事業計画の打ち合わせ、その後十八時より――」
(まだあるの!?)
里桜は再び手帳を取り出したくなる衝動を必死で堪えた。
どうやら社長という人種は、朝から晩まで予定を隙間なく詰め込まれるらしい。
一通りの説明を聞き終え、社長室へ案内される。
そこで里桜は、朝からずっと我慢していた尿意を思い出した。
「神崎くん」
「はい」
「ちょっとお手洗いに行ってくるよ」
「…………承知いたしました」
神崎の返答に妙な間があったが、里桜は気にせず社長室を出た。
廊下を進むと、ほどなくして化粧室の案内が見えてくる。
里桜は長年染みついた習慣のまま、何の疑いもなく赤色のマークが掲げられた女性用トイレへ向かった。
そして入口へ足を踏み入れる寸前、視界の端に映った自分の大きな革靴を見て、ぴたりと動きを止めた。
「……っ!」
危ない。
今の自分は佐伯里桜ではない。
身長百八十センチを超える、どこからどう見ても立派な成人男性。それも、この会社の社長である。
(今の私、湊だった! 危うく社長が女子トイレに侵入して、会社を揺るがす大事件になるところだったよ……)
誰にも見られていなかったことを確認し、心の中で胸を撫で下ろす。危機一髪だった。
気を取り直して反対側の男性用トイレへ入った里桜は、そこでまた足を止めた。
目の前には、壁に沿ってずらりと並ぶ小便器。
「…………」
そうだった。今の自分には、これが使える。
男性がどうやって用を足しているのかは当然知っている。しかし知識として知っているのと、自分で実践するのとでは話が違う。
里桜は一番端の小便器の前に立ち、自分の下半身へ視線を落とした。
「ええと、男性の排尿って。ズボンのチャックを下ろして、手に持ってするんだっけ。こう、かな」
里桜は湊の大きな手で恐る恐るズボンのファスナーを下ろし、中身を取り出す。
そして、じっとその『湊の一部』をまじまじと観察してしまった。
「へえー! 男の人のって普段はこんなにコンパクトに収納されてるんだ。なんだか不思議な感じ」
里桜は感心しながらも、ブルッと身体が震える男性特有の生理現象までしっかりと体験し、ズボンのファスナーを上げる。
洗面台で手を洗う里桜。
鏡には、相変わらず恐ろしく整った顔の男が映っている。
朝から生理用品の心配をする必要もなければ、腹痛も腰痛もない。満員電車に揉まれることもなく、運転手付きの高級車で会社まで運ばれてきた。
里桜は鏡の中の湊を眺めながら、しみじみと呟いた。
「男の人の身体って、身軽だしお腹痛くならないし、最高だね」
しかも立ったまま用まで足せる。
すっかり機嫌を良くした里桜は鼻歌交じりに手を拭くと、これから自分を待ち受けている十時の役員会議のことなどすっかり忘れ、意気揚々と男性用トイレを後にした。




