第四話:本日の天気は非常に、晴天でグッドだね
駅のホームに辿り着いた時点で、湊はすでに著しく疲弊していた。
普段なら自宅マンションの地下駐車場から専用車に乗り、そのまま会社のエントランスまで運ばれる。
通勤という行為そのものに体力を消耗するという概念が、これまでの彼の人生には存在しなかった。
だが、佐伯里桜の通勤手段は電車だったのだ。
しかも、朝の通勤ラッシュ真っ只中だ。
「…………」
目の前を埋め尽くす人、人、人。
到着した電車の扉が開いた瞬間、さらに多くの人間が容赦なく車内へ吸い込まれていく。
(……これに乗るのか?)
一瞬、本気で次の電車を待とうかと考えた。
しかし、次も同じだろう。そして初日から遅刻という失態は、高橋湊のプライドが許さない。
湊は覚悟を決め、人の波へ身体を滑り込ませた。
扉が閉まる。
「…………っ」
即座に左右から身体を圧迫された。
知らない男の背中、誰かの鞄、肩に触れる他人の腕、逃げ場が一切ない。
そして何より……
(……臭い)
香水、整髪料、柔軟剤、汗。
朝食でも食べてきたのか、僅かに食べ物の匂いまで混ざっている。
複数の人間が発する匂いが、密閉された車内に充満していた。
今の身体では他者の臭いがやけに鮮明に鼻につく。
(佐伯は毎朝、この劣悪な環境を通勤と称して利用しているのか?)
電車が大きく揺れた。
「っ……!」
吊り革を掴む腕に力が入る。
同時に、下腹部へ鈍い痛みが走った。
朝から居座り続けている重い痛み。
立ちっぱなしのせいか、腰までじわじわと砕けそうに辛くなってくる。
座席を見る。当然、満席だった。優先席にも空きはない。
「…………」
湊は無言で吊り革を握り直した。
生理痛、腰痛、眠気、満員電車、他人の体臭。
そして、これから一日中、見知らぬコールセンターでの電話応対。
「…………呪いだ」
小さく漏れた湊の絶望の呟きは、電車の走行音に呆気なくかき消された。
◇◇◇
一方、その頃の佐伯里桜。
「…………何これ」
マンションのエントランスを出たところで、完全に立ち止まっていた。
目の前には、黒塗りのマイバッハ。
運転手らしき初老の男性が後部座席のドアを開き、恭しく頭を下げる。
「おはようございます。高橋社長」
「…………」
(社長って、電車乗らないんだ)
当然である。
だが里桜にとって、運転手付きの車で出勤する人間など、テレビドラマの中にしか存在しなかった。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「…………」
礼を言われた運転手が一瞬だけ動きを止めたが、里桜は気づかないまま後部座席へ乗り込む。
ドアが静かに閉じられた。
広く静かだ。
車というより、移動する部屋のようだ。
(何これ。最高じゃん)
ふかふかのシートへ身体を預ける。
いつもなら満員電車で他人に揉まれながら出勤している時間だ。
だが、自分は今、革張りの後部座席で悠々と運ばれている。
(湊、毎朝これで会社行ってんの? ずるくない?)
その湊がいつも座る定位置には、仕事用のノートパソコンが置かれていた。
本来ならこの時間、高橋湊はそれを開き、国内外の株価やニュースに目を通している。
あるいは静かに目を閉じ、その日の会議や経営戦略を頭の中で整理している。
が、今日の後部座席にいるのは、佐伯里桜である。
(…………気まず)
運転手と何を話せばいいのか分からない。
ふと運転席を見る。制服の胸元にネームプレートがあった。
『山田』
(山田さん!)
里桜は心の中で歓喜した。
(よかった! 覚えやすい名前!)
そして考える。このまま無言なのも不自然な気がする。
湊なら何を話すか顎に手を添えて考えてみる。
社長、経営者、コンサル、偉い人。
(……横文字だ)
里桜の脳内で、極めて安直で最悪な結論が導き出された。
「山田さん」
「はい、社長」
(湊っぽく。落ち着いた大人の男っぽく……)
里桜は窓の外へ視線を向けた。
「本日の天気は非常に……」
一拍。
「晴天で、グッドだね」
「…………」
高橋湊の極上の低音ボイスが、静かな車内に響き渡った。
だがその口から放たれた言葉は、決定的に高橋湊のそれではなかった。
「…………左様でございますね」
山田はそう答えながら、ルームミラー越しに後部座席を確認した。
(社長が……天気の話を?しかも、グッド?)
長年、高橋湊の送迎を担当してきた山田だが、彼の口からそんな言葉を聞いた記憶は一度もない。
里桜はその怪訝な視線に気づいた。
(やばい)
何か間違えたらしい。
(もっと湊っぽくしなきゃ。落ち着いた大人の男。できる男……!)
「ゴホン」
わざとらしく低い咳払いをする。
「山田さん」
「はい」
「君の本日の健康状態は……パーフェクトかな」
「…………」
「いつも安全運転を、感謝するよ」
「…………ありがとうございます、社長」
山田は前を向いた。そして本気で思った。
(一体、何があった?)
昨日までの社長なら、こちらから業務上必要な報告をしない限り、目的地まで一言も発しないことさえ珍しくなかった。
それが今日は天気を褒め、自分の健康を気遣い、日頃の感謝まで伝えてくる。
まるで人格が違う。
だがまさか本当に中身が別人だとは、山田に分かるはずもない。
その困惑が限界に達しようとした頃。
黒塗りのマイバッハは、都心にそびえる本社ビルの車寄せへ音もなく滑り込んだ。
里桜は窓の外を見上げた。
「…………でか」
その一言に、山田は再びルームミラーを見た。
車を降り、エントランスの自動ドアを抜ける。
大理石が敷き詰められた広大なロビー。
そこを歩いていた数十人の社員たちが、長身の男(里桜)の姿を認めた瞬間、一斉に足を止めて深く頭を下げた。
「おはようございます、社長」
「あ、おはようございまーす!」
太陽のように明るく、そして社長らしからぬ軽快な返事。
その瞬間、頭を下げていた社員たちの肩がビクッと跳ねた。
(やっば。浮いた。絶対今のおかしかった)
里桜は即座に表情を作り直す。
どうやらこの会社では「おはようございまーす!」は正解ではないらしい。
気を取り直し、数メートル先で待機していた受付嬢と警備員の前を通る。
「おはようございます、高橋社長」
「…………」
今度は無言。
顎を僅かに引き、片手を軽く上げるだけにとどめた。
(よし。これだ)
里桜は心の中でガッツポーズを決めながら、役員専用の静かなエレベーターへと乗り込んでいった。
一方、その頃。
幾度となく乗り換えを繰り返し、ようやく都内の郊外にあるオフィスビルへ辿り着いた湊は。
「…………」
里桜の働く、コールセンターのフロアに足を踏み入れていた。
ずらりと並んだ無数の小さなデスク。
耳を塞ぎたくなるような、数十人分の話し声と電話のコール音。
一人ひとりに与えられたスペースは極めて狭く、隣の席との間には薄いパーテーションがあるだけだ。
(……ここで、八時間?)
絶え間ないノイズと、空気の悪さ。
そして腹部から発せられ続ける、重苦しいエラー信号。
高橋湊は、その場に立ち尽くしたまま、本日何度目かの深い絶望を味わっていた。




