第三話:僕は今ブラジャーを付けるのに集中している
とりあえずの危機は乗り越えた。
だが、二人の間に残された問題は山積みだ。
何せ、身体が入れ替わったばかりで、お互いのことはまだ名前と顔しか知らないのだ。
湊は里桜に話を切り出す。
「まず、今後について話し合う必要がある」
『あ、やば』
湊の真剣な声に対し、電話の向こうの里桜が素頓狂な声を上げた。
「何だ」
『もうこんな時間じゃん。湊、早く仕事行ってよ』
「…………は?」
湊は自分の耳を疑った。
『遅刻するよ』
「待て。なぜ僕が君の職場へ行く必要がある」
『だって今日、私出勤だもん』
「休めばいいだろう」
『無理無理。有給ほとんど残ってないし』
「体調不良だ」
『生理は病気じゃないから、休めないよ』
「これが!?」
湊は、洗面所で思わず大声を上げた。
「腹部に継続的な疼痛があり、出血し、腰痛まで発生している状態で、通常勤務を要求されるのか!?」
『要求されるっていうか、みんな普通に薬飲んで仕事してるよ』
「正気か?」
湊の顔が青ざめる。
常に下腹部を鈍器で殴られ続けているような重痛い感覚がある。
こんな深刻な状態で労働を強いるなど、企業として明らかなコンプライアンス違反であり、労働環境の欠陥だ。
「……なら、君が僕の会社へ行け」
『え?』
電話の向こうで、里桜がフリーズしたのが分かった。
「僕だけが君の仕事をするのは公平性を欠くだろう」
『いやいやいやいや、待って。私、社長なんてできないよ!?』
「僕もコールセンター業務など経験したことはない」
『電話取って喋るだけだよ!』
「なら、社長も報告を聞いて判断して指示するだけだ」
『絶対そっちの方が難しいじゃん!!』
電話越しに不毛な押し付け合いが数分続いた。
しかし、時計の針は無情にも進んでいく。
結果として、二人とも「お互いの姿で出勤する」という最悪の選択を採るしかなかった。
「最低限のルールを決めるぞ」
湊は痛むお腹を押さえながら、冷静に条件を提示した。
「いいか。今から5つ伝える。
1、分からないことがあったら連絡すること。
2、勝手に重要事項を決裁しないこと。
3、僕の会社では『神崎』という秘書を頼れ」
『わかった。私の会社では隣の席の『佐藤さん』を頼って』
「承知した。続きを伝える。
4、お互いの身体を傷つけないこと。
5、個人的な情報を勝手に見ないこと。
……いいな?」
『オッケー、了解』
「それと、佐伯」
『何?』
「僕の身体で、奇妙な行動をするなよ」
『え?』
電話の向こうで、里桜がきょとんとした声を出す。
湊は知る由もなかった。
里桜がすでに、鏡の前でマッスルポーズやキメ顔、変顔から腹筋の確認まで、一通りの奇妙な行動を済ませていることを。
『いやいや、そっくりそのままお返ししますよ』
「…………」
湊は反論しかけて、口を閉ざした。
確かにその通りだった。
(僕は男の身体を預けているだけだが、佐伯は女性の身体を預けている。リスクという意味では、明らかに彼女の方が高い)
「……承知した。僕も最大限配慮する」
『よろしくお願いしますよ、高橋社長』
どこか揶揄うような調子の声が返ってくる。
『とにかく、準備しなきゃ! クローゼットの右側に仕事用の服あるから!』
「承知した」
湊はクローゼットへ向かい、扉を開く。
そこにはブラウスやスカート、パンツなどが並んでいる。
その手前で、湊はぴたりと動きを止めた。
「…………佐伯」
『なに?』
「今から着替える」
『うん』
「…………失礼するぞ」
『何が?』
「着替えると言っている」
『私の身体なんだから知ってるよ?』
「そういう問題ではない!」
電話の向こうで里桜が笑い出した。
『あはは! 湊、変なところ律儀だね』
「変ではない。当然の配慮だ」
『はいはい。どうぞー』
まるで自宅の風呂でも貸すかのような軽い返事だった。
湊は深く息を吐き、そして意を決してパジャマの上着へ手を掛けた。
視線は極力、正面。
必要以上に鏡を見ない。必要以上に身体へ触れない。
あくまでもこれは出勤に必要な着替えという作業である。
そう自分に言い聞かせながら、淡々と服を替えていく。
『あ、ブラちゃんとつけてね』
湊の動きが止まった。
「……それも必要なのか」
『必要に決まってるでしょ!』
「…………承知した」
本日何度目か分からない深いため息が漏れる。
触れてはいけない、見てはいけないような気がする。
それでも、着けるためには触れなければならない。
視線を逸らそうとしても、白い胸元が自然と視界に入る。
湊は、意を決して、自身の胸に手を添えてブラジャーを装着する。
手のひらに伝わる柔らかな感触が、一瞬、湊の思考を停止させた。
「…………くっ」
『ん?今なんか言った?』
「なんでもない」
『絶対何かあるでしょ』
「これ以上聞くな。察しろ」
一方の里桜。
広大なウォークインクローゼットの中で、途方に暮れていた。
「ねえ、スーツ全部同じに見えるんだけど」
『同じではない。ネイビーのスリーピースを着ろ』
「ネイビーね……」
里桜は適当な一着を引き抜いた。
『それはチャコールグレーだ』
「知らんがな!」
電話越しの衣擦れの音だけで言い当ててくる湊に、里桜は理不尽な怒りを覚えた。
『左から三番目だ。ネクタイは右の棚の上から二段目、奥から四番目のボルドーの無地。時計はケースの一番左。靴は……』
「ちょっと待って! 社長って毎朝こんな面倒くさい格好してんの!?」
『君に言われたくない。僕は今ブラジャーを付けるのに集中しているんだぞ』
電話の向こうからギリリ、と歯を食いしばるような音が聞こえた。
続いて、湊の低い恨み節が響く。
着替えている間も、通話は繋がったまま。
なぜか、お互いに切ることができなかった。
ようやく着替えが完了する。
湊の頬は、すっかり赤く染まっている。
ふぅ、と息を吐く湊。
「ミッション・コンプリートだ」
『こっちもOK。あんた、スーツ着るとめちゃくちゃカッコいいね』
鏡の前に立つ里桜。
さっきまで黒いTシャツ姿だった男が、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたような、隙のない完璧なエリート経営者に変貌している。
仕立ての良いスーツが、広い肩幅と長い脚をさらに際立たせていた。
『…………くだらないことを言っていないで早く出ろ』
電話の向こうで、本物の湊の声が少しだけ低くなった。
自分の身体を褒められるという異常事態。だが、なぜか悪くない気分だった。
鏡の中の里桜の耳が、さらに赤く染まる。
机の上に転がったコスメが湊の視界に入る。
湊は大きく目を見開く。
「待て、佐伯」
『なに?』
「顔はどうする」
『顔?』
「君は普段、この状態で出勤しているのか?」
『あー、化粧ね』
湊はまた青ざめる。
ナプキンという難関ミッションをクリアした直後に、またしてもマニュアルのない高度な塗装作業を要求されるというのか。
「……またマニュアルのない作業か」
『日焼け止めと眉毛だけでいいよ。マスクするし』
「眉毛……?」
湊は洗面台に置かれた細いペンを手に取り、鏡に映る自分の(里桜の)顔を見つめた。
一本のペンで眉を描き足すという、これまで要求されたことのない芸術的センスを問われている。
手先が震えそうだった。
数分後。
「ミッション・コンプリートだ」
『じゃあ、行きますか。それぞれの会社に』
「ああ」
かくして、最悪の朝を迎えた二人は、それぞれの戦場へと向かった。




