第五十四話:明日、同じことを言え
本社ビルからほど近い、会員制のフレンチレストラン。
神崎の手配によって確保された奥の完全個室は、外界の音を一切遮断する静謐な空間だった。
間接照明が落とす柔らかな光の中、里桜は目の前に置かれたグラスの水を、ぎゅっと両手で握りしめていた。
「……お母さんが、湊の実家に?」
向かい側に座る湊の口から語られた事実に、里桜の顔から血の気が引いた。
「ああ。君に接触できないと踏んで、ターゲットを僕の両親へ切り替えたらしい」
「そんな……」
「非常に巧妙な手口だった。自分は至らない母親だが、娘の幸せを心から願っていると。君から誤解されて避けられている、悲劇の母親を見事に演じきった」
里桜はうつむき、唇を噛んだ。
やっぱりだ。
あの人は、いつも自分の大切なものを壊しにくる。
「ご両親……私のお母さんのこと、信じちゃったの?」
「母さんは、かなり同情していた」
「……」
里桜の視界が歪む。
湊の家族にまで、自分の汚い泥を塗りつけてしまった。
あんなに良くしてくれた優しい両親に、「親不孝な娘」だと思われてしまった。
「ごめんなさい……私……」
震える声で謝罪を口にしかけた時。
不意に、湊の大きな手がテーブルを越え、グラスを握りしめている里桜の両手をすっぽりと包み込んだ。
「謝るな。君は何も悪くない」
顔を上げると、湊の漆黒の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「僕は、両親の認識を根底から覆すための客観的な『ファクト(事実)』が必要だった。あの女が自らの口で、借金のこと、君を放置したこと、そして――僕にまで性的な接触を図ろうとしたことを認める証拠データが」
里桜の息が止まる。
ホテルで二人を見た時の絶望が、一瞬で裏返っていく。
「それが、この録音データだ」
湊は空いた片手で、内ポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルへ置いた。
「君を不安な気持ちにさせてしまった。これだけは僕の落ち度だ。すまなかった」
「湊……」
「だが、これだけは間違えないでほしい」
湊の手に、僅かに力がこもる。
「僕が、君の母親に感情を動かされることなどあり得ない。いや、君の母親に限った話ではないな。他の女性に僕の時間や感情を投資する合理的理由は、もはや僕の中に一切存在しない」
「……っ」
「僕が欲しいのは君だけだ、里桜」
あまりにも真っ直ぐで、不器用で、逃げ場のない言葉。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……バカ」
里桜の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「湊の、バカ……!」
湊は無言で立ち上がると、里桜の隣へ移動し、その小さな身体をそっと抱きしめた。
スーツの胸元に顔を埋め、里桜がしゃくり上げる。
「私……三日も、無視したんだよ……? ひどい態度とって、逃げて……最低じゃん……」
「ああ。理由が分からず、業務効率が著しく低下してかなり困った」
「そこは否定してよ……!」
泣きながら胸板を叩く里桜を、湊は愛おしそうに、さらに強く抱きしめた。
部屋の中には、彼女の小さな泣き声と、湊の安堵したような深いため息だけが響いていた。
◇◇◇
そして、三十分後。
「みなとぉ……」
「…………」
湊は、完全にフリーズしていた。
録音データに関する問題も解決し、心の底から安心した里桜。
高級フレンチの味が分かるようになったのかは定かではないが、「美味しい!」と目を輝かせ、湊が止める間もなくワインをカパカパと飲み進めた。
結果。
顔を真っ赤に紅潮させ、完全に出来上がったご機嫌な酔っ払いが完成した。
「ねぇ、みなとぉ」
隣に座ったまま、里桜が湊のスーツの袖をツンツンと引っ張る。
とろんと潤んだ瞳。体温で熱を帯びた白い肌。見上げる視線の配り方や、無防備に緩んだ口元が、異常なほどに色っぽい。
冷徹なサイボーグである湊の処理能力が、先ほどから限界を迎えている。
「……飲みすぎだ、里桜。水をもらおう」
「お水いらなぁい。それよりさぁ」
里桜は湊の肩にこつんと頭を乗せた。
「みなとぉ、好き」
「…………」
湊のシステムが、完全に停止した。
グラスを持とうとしていた手が、空中で静止する。
「……今、何と言った?」
「好きぃ」
へにゃりと笑って、里桜が湊の腕に抱きつく。
湊は奥歯をギリッと噛み締めた。
自制心という名の防護壁に、かつてない規模のひびが入り始めている。
「ねぇ、なんで私なの?」
里桜が上目遣いで尋ねる。
「湊みたいに完璧なら、他にもいーっぱい素敵な女性いるでしょ? 綺麗で、頭が良くて、ちゃんとした家の人とかさぁ」
湊は一度だけ深く息を吐き、暴走しそうな理性をなんとか繋ぎ止めた。
「……ステータスや条件で選ぶなら、以前、そういう女性と交際したこともある」
「……ふぅん」
「だが」
湊は、自分へしなだれかかっている里桜の肩を抱き寄せた。
「君と話したいと思った。会いたいと思った。君からの連絡が途絶えた三日間が、異常に長いと思った」
「…………」
「僕にとっては、それで十分だ」
条件など関係ない。
ただ、佐伯里桜という存在そのものに執着している。
その真っ直ぐな言葉が、酔った里桜の胸の奥に、甘く、深く突き刺さった。
「……ねぇ、みなとぉ」
袖を引く力が、少しだけ強くなる。
「なんだ」
「チュー、したい」
「…………ッ」
湊の理性が、音を立てて崩壊しかけた。
漆黒の瞳に、明らかに危険な熱が宿る。
里桜はそんな湊の異変に気づくこともなく、目を閉じ、赤い唇を少しだけ突き出した。
……無防備すぎる。
湊の手が、ゆっくりと里桜の顎へ添えられた。
顔が近づく。
アルコールと、彼女の甘い匂いが混ざり合う。
里桜は、彼の唇が重なるのを待った。
……チュッ。
だが、柔らかな感触が落ちたのは、唇ではなく、熱い頬の上だった。
「……え?」
里桜がゆっくりと目を開ける。
すぐ目の前に、荒い息を吐き、ギリギリのところで踏みとどまっている湊の顔があった。
「……そこじゃない」
里桜が不満そうに唇を尖らせる。
だが、湊の瞳は据わっていた。
「今の君のリクエストを、そのまま承認するつもりはない」
「なんでぇ」
「君が酔っているからだ」
アルコールの勢いで流されたと、明日になって後悔させるわけにはいかない。
湊は里桜の耳元へ顔を寄せ、低く、甘く、危険な声で囁いた。
「……明日、シラフに戻った時、もう一度同じことを言え」
「…………言ったら?」
「その時は、一切の遠慮はしない」
里桜の身体が、ビクッと震えた。
耳元に吹き込まれた声の熱に、酔いが少しだけ醒めそうになる。
それでも、里桜は負けじと呟いた。
「……絶対、言うもん……」
むにゃむにゃと文句を言いながら、里桜は再び湊の肩へ頭を預けた。
数分後。
すぅ、すぅ、と、静かで規則的な寝息が聞こえてくる。
完全に寝落ちしたらしい。
「…………」
湊は、自分の肩で無防備に眠る里桜を見下ろした。
それから、天井を仰ぎ、これまでの人生で最も深く、重い溜め息を吐き出す。
「……言質は取ったぞ」
誰に言うでもなく、低い声が個室に響く。
「明日、必ず回収するからな。…………覚えていろ」
それは、冷徹な社長の顔を完全に脱ぎ捨てた、一人の男の獰猛な宣戦布告だった。




