第五十三話:やっと捕まえた
午後十七時三十分。
定時まであと三十分というところで、里桜はパソコンの画面を見つめながら、内心ひどく落ち着かない時間を過ごしていた。
(……おかしい)
今日、自分はあの男の職権乱用によってこのフロアへ連行された。
初日だ。
てっきり、朝一番で恩着せがましく様子を見に来るか、あるいは昼休みにでも強引に接触してくるものだと身構えていた。
だが、高橋湊は一度も姿を見せなかった。
もちろん、ここは本社の事業開発本部だ。
社長が特定の一般社員の席へ頻繁に顔を出すほうがおかしいのだが、あの男が今さらそんな体裁を気にするとは思えない。
あれだけ強引に外堀を埋めておきながら、完全放置。
そう、完全放置なのだ。
(何なの、もう……)
自分から連絡を無視し続けた手前、ほっとしたような、でも少しだけ、拍子抜けしたような。
そわそわと手元の資料を整理していた、その時だった。
「佐伯さん」
「……っ、はい!」
背後から声をかけられ、里桜の肩が大きく跳ねた。
振り返ると、そこには見慣れた、いや、見慣れすぎている冷徹な眼鏡の男が立っていた。
社長秘書、神崎。
フロアの空気が、一瞬でピンと張り詰める。
周囲の先輩社員たちも「なぜ社長秘書が直接ここに?」と驚いた顔をしている。
「業務中、失礼いたします。社長がお呼びです」
「……え?」
「社長室へご同行願えますか」
有無を言わさない、完璧な事務対応だった。
里桜は引き攣りそうになる顔を必死に抑え、立ち上がった。
「か、かしこまりました」
周囲の「初日になぜ社長から直接呼び出しが?」という視線が痛い。
だが、ここで騒ぐわけにもいかない。里桜は諦めて、神崎の背中について歩き出した。
◇◇◇
最上階、社長室。
重厚な扉を抜けると、そこはため息が出るほど広く、洗練された空間だった。
壁一面の窓からは夕暮れの都心が眼下に広がり、巨大なマホガニーのデスクの奥に、その男は座っていた。
「社長。佐伯さんをお連れしました」
「ご苦労」
湊が手元の決裁書類から顔を上げる。
深い漆黒の瞳が、里桜を真っ直ぐに射抜いた。
スーツ姿の彼を見るのはスーパーの買い出し以来だが、やはりこの社長室という玉座にいる時の高橋湊は、桁違いの威圧感を放っている。
(……怒ってる?)
里桜は無意識に身を硬くした。
三日間、連絡を完全に無視したのだ。
怒られても文句は言えない。
「初日の業務、お疲れ様」
湊の声は、低く、静かだった。
「はい……ありがとうございます」
「本社での業務はどうだった。やりにくいことはなかったか。環境に対する要望があれば、遠慮なく言ってほしい」
極めて理路整然とした、社長から社員へのヒアリング。
里桜は少しだけ拍子抜けしながら答える。
「いえ、やりにくいことなんて全くありません。むしろ、皆さんにとても親切にしていただいて……」
「そうか」
「その、思いつきのアイデアまで拾っていただいて、驚きました」
「君の生活者としての視点は、この組織にとって必要な資産だ。堂々と発言してくれて構わない」
「……はい」
完璧なビジネス会話。
だが、そのやり取りを横で聞いていた神崎が、静かに中指を動かした。
クイ。
「では、私はこれで」
「ああ」
神崎が一礼し、退室していく。
重厚な扉が、カチャリと音を立てて閉まった。
完全な密室。
防音の効いた広い空間に、二人きり。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
やがて、湊がゆっくりと椅子から立ち上がった。
机を回り込み、里桜の目の前まで歩いてくる。
高い背。
微かに香る、彼特有のウッディな香り。
「湊……」
里桜が一歩後ろへ下がろうとした、その時。
「……やっと捕まえた」
湊の声が、ふっと甘く、柔らかいものに変わった。
先ほどまでの冷徹な「社長」の仮面が完全に剥がれ落ち、そこには里桜にだけ見せる「一人の男」の顔があった。
「逃げるから、こんなカードを切る羽目になった」
「っ、異動させたの、やっぱり湊でしょ!」
「そうだと言ったら?」
「公私混同すぎるよ! 本気で怒られるかと思ったのに……」
「僕が君を怒るわけがないだろう」
湊は低く呟き、里桜を見下ろした。
その瞳の奥には、隠しきれないほどの熱と、切実な色が燻っていた。
「……理由を聞かせてほしい」
「え?」
「なぜ僕からの連絡を、三日間も完全に遮断した?」
逃げ場のない問いだった。
里桜は言葉に詰まる。
視線を彷徨わせ、ギュッと両手を握りしめた。
言いたくない。
でも、ここまでされて言わないわけにはいかない。
「……見たの」
震える声で、絞り出すように言った。
「見た?」
「数日前。ホテルのエントランスで。湊が、お母さんと二人で出てくるところ……」
湊の目が、僅かに見開かれた。
里桜の脳裏に、あの時の絶望感が再び蘇る。
「なんで、お母さんと二人で会ってたの……? お母さん、湊にまで手を出そうとして……湊も、また、私から……」
言葉の後半は、涙声になって震えていた。
母親にすべてを奪われてきたトラウマ。
唯一信じたかった湊まで奪われてしまったのではないかという恐怖。
俯く里桜の肩が、小さく震える。
だが、湊の反応は、里桜の予想とは全く違うものだった。
「……」
「っ……なんで、笑ってるの……?」
恐る恐る顔を上げると、湊の口元が、柔らかく弧を描いていた。
冷徹なサイボーグの笑みではなく、心の底からの安堵が滲み出たような、ひどく甘い微笑みだった。
「ごめん。笑うところじゃないな」
湊はそう言いながら、大きな掌で里桜の頬をそっと包み込んだ。
「僕自身が嫌われて、見限られたのかと思った。……三日間、生きた心地がしなかった」
あの完璧な高橋湊が、そんな弱音を吐くなんて。
里桜は目を瞬かせた。
「あの女と会っていたのは、君を裏切るためじゃない」
湊の親指が、里桜の目尻に浮かんだ涙を優しく拭う。
「あの女から君を守るために、二度と近づけないよう『客観的な証拠』を掴みに行っていたんだ」
「証拠……?」
「そうだ。その話の裏付けとして、君には聞いてほしい録音データがある」
湊は里桜の頬を撫でながら、もう片方の手で彼女の腰をそっと抱き寄せた。
「だが、この無機質なオフィスで話すような内容じゃない。……これから食事に行こう。そこで全部、君が納得するまで説明する」
「食事……」
「嫌か?」
湊の顔が近づく。
至近距離で見つめてくる漆黒の瞳には、有無を言わさぬ熱と、彼女への深い執着が渦巻いていた。
断れるわけがない。
誤解だと分かって、心の奥底で凍りついていたものが、急速に溶けていくのが分かる。
「……そんなこと、ないもん」
里桜が小さな声で答えた瞬間。
「っ……」
湊の長い腕が、里桜の身体を強く、息が詰まるほど深く抱きしめた。
「湊……?」
「三日分だ。少しこのままでいさせてくれ」
肩口に顔を埋められ、彼の体温と動悸が、スーツ越しにダイレクトに伝わってくる。
冷徹なはずの社長が、今、自分を手放すまいと子供のように抱きしめている。
里桜はそっと目を閉じ、少しだけ迷ってから、彼の広い背中に自分の腕を回した。
定時を知らせる静かなチャイムが、遠くで鳴っていた。
◇◇◇
その頃。
社長室のすぐ外にある秘書室では、神崎がその日の業務を終え、ようやくパソコンを閉じたところだった。
時計を確認し、机の引き出しから小さな箱を取り出す。
中に入っていたのは、帰りに買っておいた季節限定のケーキだった。
ふわりとしたクリーム、艶のある苺、見るからに糖度の高そうな一品である。
神崎は無言でフォークを入れ、一口。
「…………」
かなりの甘さだ。疲れた頭には、ちょうどいい。
ゆっくり咀嚼しながら、ふと視線を横へ向ける。
すぐ隣にある、社長室の重厚な扉。
先ほど、自分が佐伯里桜を連れていき、そして二人きりにしてきた場所だ。
神崎はもう一口、ケーキを口へ運んだ。
そして、中指で眼鏡のブリッジを静かに押し上げる。
クイ。
(今頃、あの扉の向こう側は……)
フォークの先に残ったクリームを見る。
(このスイーツよりも、よほど糖度が高くなっているのでしょうか)
数秒考え、神崎は何事もなかったように、次の一口を食べた。
確認する必要はない。
というより、確認したくもなかった。




