第五十二話:モニタリング
翌朝。
都心にそびえるワード・グローバル・ホールディングス本社。
巨大なエントランスへ足を踏み入れた里桜は、受付前で一度だけ深呼吸した。
昨夜届いたネイビーのジャケットに白いブラウス、細身のパンツ。パンプスも驚くほど足に馴染んでいる。
鏡で見れば、それなりに本社勤務の人間には見えた。
だが、中身は昨日までコールセンターで、
『お気持ちは分かりますが、弊社といたしましては――』
と理不尽に怒鳴られていた一介の契約社員である。
(大丈夫。働く場所が変わるだけ。人間が突然エリートになるわけじゃない)
自分へ言い聞かせながら受付を済ませると、ほどなくして四十代くらいの男性がこちらへ歩いてきた。
「佐伯さんですね」
「はい!」
反射的に背筋を伸ばす。
「地域創生プロジェクト室の課長の室田です。今日からよろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします!」
湊でもなければ、神崎でもない。
その事実に、少しだけ肩の力が抜けた。
てっきりあの男が初日から何食わぬ顔で現れて、『遅刻はしていないな』くらい言ってくるのではないかと身構えていた。どうやら、そこまで露骨な特別扱いはしないらしい。
課長に案内され、まず総務で社員証を受け取った。
顔写真入りのIDカード。そこに書かれている、
《Ward Global Holdings》
の文字を見て、改めて実感する。
「……本当に入っちゃった」
「何か?」
「いえ、何でもありません!」
カードを首から下げ、オフィスへ向かう。セキュリティゲートを抜け、エレベーターで上階へ。
案内されたフロアは、里桜が想像していたよりも静かで、それでいて堅苦しくなかった。
ガラス張りの会議室、壁一面の大型モニター、複数人がホワイトボードの前で立ったまま議論しているスペースもある。
「こちらが事業開発本部、その中の地域創生プロジェクト室です」
「……名前が強い」
思わず漏れた。課長が笑う。
「大丈夫ですよ。名前ほど怖くありません」
「そうなんですか?」
「少なくとも噛みつく人間はいません」
「前の職場には、電話越しに何人かいました」
課長が一瞬止まり、それから吹き出した。少しだけ安心した。
◇◇◇
午前中は、ほとんど説明で終わった。
社内システム、勤怠、経費申請、情報管理、プロジェクトの進め方。
その後は部長から、今回里桜が配属された理由について説明を受けた。
「佐伯さんには、石黒産業との共同案件に入ってもらいます」
「石黒産業……?」
聞き覚えがありすぎる名前に、里桜の背筋が伸びた。
「地方の廃校を活用した宿泊型リゾート事業です。自治体とも連携して、雇用創出や地域活性まで含めて設計しています」
「…………」
里桜は黙った。知っている。
というか、それを最初に言い出したのは、自分だ。正確には、高橋湊の身体に入っていた自分だが。
「佐伯さん?」
「いえ!」
危ない。
「でも、どうして私なんですか?」
これは聞いておきたかった。
「私、昨日までコールセンターですよね。事業開発の経験なんて一回もないですし」
部長は少し考えてから答えた。
「生活者のリアルな視点と、対人調整能力を期待しています」
ものすごく、聞き覚えがある。
「……ちなみに、この人事を決めたのって……社長ですか?」
部長は特に意味を含ませることなく答えた。
「最終決裁は社長ですね。今回に限らず、本社人事で一定以上の異動は最終的にすべて社長決裁です」
「……ですよね」
事務的。非常に事務的。
だからこそ、これ以上は聞けなかった。
午前中は先輩社員の隣へ座り、現在の企画書や自治体との協議内容を見せてもらった。
最初は、正直かなり身構えていた。分からない専門用語だらけで、自分だけ話についていけず、使えない人間だと思われるのではないか。
だが。
「ここ、分かりにくいですよね」
女性の先輩社員が画面を指す。
「最初はみんなそうなんで。分からないところは止めてくださいね」
「止めていいんですか?」
「もちろん」
里桜は目を瞬いた。
「怒られません?」
今度は向こうが目を瞬いた。
「……なんで怒るんですか?」
その一言に、里桜はしばらく黙った。
何か意見を聞かれ、恐る恐る答えても、
「なるほど」
「その視点はなかった」
「利用者側から見ると、確かにそうですね」
と、きちんと拾ってくれる。
否定から入らないし、馬鹿にもしない。
分からないことを聞いても、舌打ちもため息もつかれない。
昼前には、里桜の目が明らかに輝き始めていた。
(……何ここ)
仕事とは、理不尽を飲み込み、怒鳴られ、数字に追われ、取れなければ評価を落とされるものだと思っていた。
どうやら違うらしい。
(仕事って、ちゃんと教えてもらっていいんだ……)
二十年以上生きてきて、初めて知った気がした。
◇◇◇
十二時。
休憩スペースで、里桜はいつもの弁当箱を開いた。
当然、手作りである。
前夜の作り置きから詰めた煮物、ブロッコリー、卵焼き、鶏肉の甘辛焼き。
隣に座った先輩社員が覗き込んだ。
「佐伯さん、お弁当作るんだね。彩りも綺麗だし、美味しそう」
「もう癖みたいになっちゃってて。週末にまとめて作り置きするんですよ」
「偉いなあ。私は毎日コンビニ」
「慣れると楽ですよ」
卵焼きを一口食べたところで、里桜はふと手を止めた。
「そういえば私、学校でお弁当食べるの好きだったんですよね」
「へえ」
「中学生までは祖母が作ってくれてて。田舎の学校だったから、みんなで教室で食べて」
思い出す。
古い校舎、窓の向こうに広がる田んぼ、少ない人数のクラスメイト。
アルミホイルに包まれたおかず、少し甘い卵焼き。
「美味しかったなあ、おばあちゃんの卵焼き」
その瞬間。
頭の中で、何かが繋がった。
「……あっ」
「どうしたの?」
里桜が箸を止める。
「これ、廃校リゾートで使えませんか?」
近くにいた別の社員も顔を上げた。
「お弁当?」
「はい」
里桜は一気に話し始めた。
「例えば、昔のお母さんとかおばあちゃんが作ってくれたお弁当っぽいものを再現して販売するんです。中身は開けるまで秘密」
「なるほど」
「お弁当箱も使い捨てじゃなくて、ちょっとレトロで可愛いものにして、そのまま持って帰れるようにするんです。そうすれば価格設定を少し高めにしても、お土産込みって考えられるし」
先輩社員が食事の手を止めた。
「面白いかも」
「予約制にすれば、作る個数も読めるからフードロスも減らせません?」
「確かに」
「あと、一人暮らししてると分かるんですけど」
里桜は少し笑った。
「手作りのお弁当って、たまに喉から手が出るほど食べたくなるんですよ。都会で疲れてる人にとっては、豪華な料理より、誰かが作ってくれた普通のお弁当の方が刺さる時ってあると思うんです」
課長まで話を聞きに寄ってきた。
「それ、午後のミーティングで出してみましょうか。企画案として」
「今の雑談ですよ!?」
「雑談から出たアイデアでも、良ければ使います」
里桜の目が丸くなる。
その目に、確かな光が宿る。
そして、少し、笑った。
「……なんか、いいですね」
「何が?」
「この会社」
◇◇◇
その頃、最上階の社長室。
壁面の大型モニターの一角には、地域創生プロジェクト室の防犯兼モニタリング用カメラの映像が映し出されていた。
湊は執務机の椅子へ深く座ったまま、その画面を見ていた。
別に監視しているわけではない。確認だ。
初めての本社勤務、初めての正社員。
環境が変われば、想定外のストレス要因も発生する。
これは、オンボーディングの適切性をモニタリングする、経営者としての極めて重要な業務の一環だ。
決して、三日間連絡を無視されている女性が、初日に問題なく働けているか気になって仕方ないわけではない。
その時、画面越しに、里桜の声が聞こえる。
廃校リゾートでの弁当販売。
懐かしさ、持ち帰れる弁当箱、予約制によるフードロス抑制、そして生活者心理まで含めた商品設計。
湊の目が僅かに見開かれた。
隣で資料を整理していた神崎へ視線を向ける。
「神崎、聞いたか」
「……聞こえております」
湊は椅子へ深く座り直した。
その口元には、数日ぶりに明確な、隠しきれないほどの満足感が浮かんでいた。
「やはり、僕の人選は間違っていなかっただろう」
神崎の中指が、静かに眼鏡のブリッジへ上がった。
クイ。
「……左様でございますね」
「何だ、その言い方は」
「何も」
「彼女は初日だぞ。それで既に一案出した」
「はい」
「単なる原価率のコントロールだけでなく、客単価の向上を情緒的な顧客体験でラッピングしている。在庫リスクまで考慮した完璧なスキームだ。……事業開発向きだと思わないか」
神崎は一度だけ画面を見る。
そこには、周囲の社員と楽しそうに話している里桜の姿。
それから、自分の推しを語る限界オタクのように、妙に誇らしげな顔をしている自社の社長を見る。
クイ。
「社長。大変嬉しそうですね」
湊の表情がピタリと止まった。
「……人材配置が成功したことを、客観的に評価しているだけだ」
「承知しております」
クイ。
「職権乱用のリターンが、想定以上に大きかったようで何よりです」
「眼鏡を上げるな」
「視界の調整です」
神崎は淡々と答えた。
湊は不満そうに眉を寄せながら、もう一度モニターへ視線を戻した。
その画面の中で、理不尽から解放された里桜の笑顔が、自信に満ちて輝いていた。




