第五十一話:外堀
会議室を出ても、里桜の頭の中には疑問符しか残っていなかった。
正社員登用、本社異動、しかも明日から。
席へ戻る途中、何度辞令を見直しても内容は変わらない。
「……いや、普通もうちょっと猶予ない?」
思わず小声で呟く。
人事異動というものは、もっとこう……一か月前くらいに打診されて、引き継ぎをして、心の準備をして、必要なら服を買って、そういう段階を踏むものではないのか。
少なくとも、昨日までコールセンターで電話を取っていた契約社員が、翌日いきなり本社の事業開発本部へ放り込まれるものではないはずだ。
(絶対おかしい)
さすがに一度、検討する時間をもらえないか。
センター長へそう相談しようと思いながら自席へ戻った、その時、内線が鳴った。
「佐伯さん、本社の人事部からお電話です」
「……人事部?」
受話器を取る。
「お電話代わりました。佐伯です」
『突然のご連絡失礼いたします。本社人事部の――』
電話の向こうから聞こえてきたのは、やけに丁寧で、そして何故かひどく疲弊したような男の声だった。
『このたびの正社員登用及び本社異動について、いくつか確認事項がございまして』
「はい……あの、すみません。その件なんですけど」
『はい』
「私、一度持ち帰って検討することってできますか?」
沈黙。
『……検討、ですか』
「はい。あまりにも急なので」
電話の向こうで、何か紙をめくる音がした。
◇◇◇
その日の朝。
人事部長は、出社直後にかかってきた一本の電話を今でも鮮明に覚えていた。
『高橋です』
社長直通。その時点で嫌な予感はしていた。
『昨日依頼した佐伯里桜の人事の件ですが、今日中に本人への説明と意思確認まで完了してください』
「本日中、ですか?」
『何か問題がありますか』
声は静かだった。静かなのに、逃げ道がなかった。
「いえ。ただ、通常ですと本人との面談や条件説明、それから現所属部署との業務引き継ぎの調整も――」
『不要なプロセスは省略し、最短経路で実行してください。対象者は現在ルーティン業務を担当しており、引き継ぎのコストは極めて低い。全て今日中に実施してください』
「…………はい」
『本人が服装面を懸念する可能性があります』
「服装、ですか?」
『現職ではカジュアル勤務です。明日から本社勤務となれば、本人がそこを心理的障壁と認識する可能性がある』
人事部長は一瞬、返事に詰まった。
何故そこまで知っている。そんな疑問が浮かんだが、絶対に口には出さなかった。
『必要な装備は既に神崎に手配させています』
「既に、ですか」
『はい。体型データは取得済みですので、採寸の手間は発生しません』
怖い。怖すぎる。
『本人が余計な不安を抱えないように、スムーズに誘導してください。よろしくお願いします』
通話が切れたあと、人事部長はしばらく受話器を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……何なんだ、この案件」
◇◇◇
『佐伯さん』
「はい」
『突然の異動でご不安なお気持ちは分かります。ただ、雇用条件については現行より大幅に改善されますし、正式な正社員登用です。もちろん、後ほど詳細なご説明の時間は設けます』
「はい」
『それと、服装についてですが』
「服装?」
「私、本社勤務用のスーツとか持ってないんですけど……」
正直に言う。
『承知しております』
「……はい?」
何故。
『明日からすぐ使えるものを、本日中にご自宅へお届けする手配になっております』
「…………はい?」
本日二度目どころではない。
『ジャケット、ブラウス、パンツ、スカート等、複数パターンで五セットほど。靴もサイズ確認済みです』
「ちょっと待ってください!」
思わず声が大きくなる。
「サイズ確認済みって何ですか!?」
『昨日の時点で手配指示が出ておりまして』
「昨日!?」
まだ自分に辞令が出ることすら知らなかった時間帯ではないか。
『十九時以降の時間指定でご自宅へ届く予定です』
「え、いや、待ってください。私まだ行くって言ってないですよね?」
『…………』
また沈黙。
電話の向こうから、人事部長の苦労が滲み出ている気がした。
『その点も含めまして、必要なご説明はさせていただきます』
絶対困っている。この人も。誰かにものすごく困らされている。
そして、その「誰か」に心当たりしかない。
「……分かりました」
受話器を置いた。
数秒、里桜は固まったまま動かなかった。
「なんじゃそりゃぁぁぁぁぁ……」
机に突っ伏した。
近くにいた佐藤がすぐ寄ってくる。
「何、どうしたの」
「本社用の服が、今日うちに届くんだって……サイズ確認済みで……」
「へえ。親切じゃん」
「親切の規模がおかしいの!」
佐藤は首を傾げた。
「で、何がそんな嫌なの?」
「何がって……」
里桜は顔を上げた。
「急すぎるし。本社だし。正社員だし。明日からって意味分かんないし」
「でも給料上がるんでしょ?」
「……上がる」
「福利厚生も?」
「良くなる」
「正社員?」
「……うん」
「じゃあ、何が嫌なの?」
あまりにも正論すぎて、里桜が黙る。
佐藤はじっと顔を見る。
「何かあったんでしょ。あの社長と」
「……」
「知らないけどさ」
佐藤は少しだけ声を落とした。
「里桜、それただ意地張ってるだけじゃない?」
胸に刺さる。
「何があったかは聞かない。でも連絡くらい返してあげたら?」
「……分かってる」
「向こう、絶対気にしてるじゃん」
分かっている。分かっているから、余計に返せない。
だって、湊だけは。
湊だけは、自分を裏切らないと思っていた。
母親がどんなことをしても、どれだけ距離を詰めても。あの人だけは絶対に相手にしない。そう信じていたから。
あのホテルの前で、二人を見た瞬間、怖くなった。
もし、自分が信じたものまで、また奪われていたら。
今度こそ、立ち直れない気がした。
◇◇◇
その日の夜。
帰宅した里桜は、しばらく玄関に立ったままスマートフォンを握っていた。
三日間。開いていなかったトーク画面を意を決して開いた。
一気に既読がつく。
『帰宅したか?』
『寝ているなら、明日でいい』
『何かあったなら話してほしい。今すぐでなくてもいい』
胸が痛んだ。
湊は怒っていないし、責めてもいない。ただ、心配している。
その事実が、余計に苦しい。
すると、画面上部に「入力中」の表示が出た。
里桜の目が見開かれる。
「……え」
既読をつけて、まだ数秒。すぐにメッセージが届いた。
『里桜』
それだけ。名前だけ。
里桜は唇を噛んだ。返そうと思えば返せる。
『ごめん』
その一言でいい。指を動かせばいい。なのに。
スマートフォンを伏せた。
子供みたいだ。自分でも分かっている。
けれど、今返したら、全部聞いてしまう。
そして、聞く勇気が、まだなかった。
その時、インターホンが鳴った。
「……はい?」
宅配便だった。
受け取ってリビングへ運び、中を開ける。
ジャケット、ブラウス、細身のパンツ、膝下丈のスカート、シンプルなワンピース、パンプス。
どれも派手ではない。けれど、肌触りが柔らかく、縫製も綺麗。色味も、手持ちの服に合わせやすいものばかりだ。五セット。組み合わせを変えれば、一ヶ月は着回せる。
「……何なの、これ」
異様にセンスがいい。里桜が普段選ぶ色も、嫌いな色も、全部知っている人間が選んだような。
「あ」
神崎。
あの有能すぎる眼鏡だ。そう思うことにした。湊がここまで細かく選んでいたら、それはそれで腹が立つ。
里桜は床に座ったまま、しばらく服を見つめた。
そして、深く息を吐いた。
「……もう」
逃げ道がない。
本社勤務、正社員、給料アップ、服まで届いた。
ここまでされたら、行くしかないではないか。
里桜は膝を抱えた。
自分には借金がある。母親に借りさせられたものだ。
本来自分が欲しくて作った借金ではない。それでも、名義は自分なので返済義務も自分だ。
「……稼ぐ」
給料が上がる。賞与も出る。返済を早められる。生活も少し楽になる。
なら、恋愛でぐちゃぐちゃになっている場合ではない。
里桜は立ち上がった。
「そうだよ」
誰に言うでもなく、自分へ言い聞かせる。
「私は借金がある」
ひどく現実的な言葉だった。でも、今の自分には、それでいい。
「早く完済したい」
届いたジャケットを持ち上げる。鏡の前で身体に当ててみる。
悔しいくらい、似合っていた。
「なら、お金は稼がないと」
もう一度、今度は少し強く。
「何が何でも稼いでやる!」
その声が、小さな部屋に響いた。
テーブルの上では、まだ返事をしていない湊からのトーク画面が、静かに光っていた。
◇◇◇
そして、翌朝。
都心にそびえ立つ、巨大なガラス張りのビル群。
その中でも一際高く、重厚な存在感を放つワード・グローバル・ホールディングスの本社ビル。
通勤時間帯の波に揉まれながら、里桜はそのビルのエントランス前に立っていた。
昨日届いたばかりの、仕立てのいいネイビージャケットに、身体のラインを綺麗に見せる細身のパンツ。足元は、不思議なほど足に馴染むパンプス。
いつもはデニムにスニーカーの自分が嘘のように、オフィス街の風景に溶け込んでいる。
「…………」
里桜は、首が痛くなるほど高く見上げて、ビルの最上階を睨みつけた。
あそこにいる。
あの、傲慢で、勝手で、自分をこんなところまで強引に引っ張り上げた男が。
「上等じゃない」
里桜は小さく呟くと、肩で風を切るようにして、巨大なエントランスの自動ドアへと足を踏み入れた。




