第五十五話:言質の回収
翌朝。
里桜は、自分の部屋のベッドで、ひどい頭痛と共に目を覚ました。
「……うう」
重い頭を押さえながら、のろのろと身体を起こす。
昨夜は、人生で一番美味しい(そして高価な)フレンチを食べた。
美味しいワインもたくさん飲んだ。
そこまでは覚えている。
だが、その後の記憶が、ところどころ抜け落ちている。
(……私、どうやって帰ってきたんだっけ)
服は部屋着に着替えてある。
たしか、湊の車で家の前まで送ってもらい、彼に肩を貸してもらって部屋まで……。
「っ!」
里桜は両手で顔を覆った。
断片的な映像がフラッシュバックする。
湊のスーツの袖を引っ張った記憶。
至近距離で見つめられた記憶。
そして、自分がものすごく、とんでもないことを口走ったような気がする。
(私……何か変なこと、言わなかった……よね?)
ベッドの上でもだえているうちに、始業時間が近づいてくる。
里桜は慌てて準備を整え、二日酔いの頭を抱えながら、なんとか本社ビルへと向かった。
◇◇◇
同じ頃、最上階の社長室。
湊は、すでに今日の必須決裁を凄まじい速度で片付け終え、デスクの上の時計をじっと見つめていた。
午前八時四十分。
そろそろ、彼女が出社している時間だ。
「神崎」
「はい」
「事業開発本部に連絡しろ。佐伯里桜を直ちに社長室へ呼べ」
即答だった。
しかし、神崎は微動だにしなかった。
中指が、静かに眼鏡のブリッジへ向かう。
クイ。
「却下いたします」
「……何?」
「社長。昨日異動してきたばかりの女性社員を、二日連続で、しかも朝一番に社長室へ呼び出す。これが社内でどのような憶測を生むか、お分かりですね」
湊の眉間に、不機嫌な皺が寄った。
「業務上のヒアリングだ」
「昨日済ませております」
「追加の確認事項が発生した」
「ならばメールで済むはずです」
「口頭で直接確認する必要がある」
「公私混同です」
神崎は一歩も引かなかった。
「彼女の社内での立場を守るという観点から、公式な呼び出しは私がストップいたします。……どうしてもとおっしゃるなら、ご自身のツールで、非公式かつ誰の目にも触れない形でご勝手にどうぞ」
神崎はそれだけ言うと、一礼してさっさと退室してしまった。
湊は舌打ちしそうになるのを堪え、手元のスマートフォンを手に取った。
確かに、神崎の言う通りだ。僕の理性が少々ショートしかけていた。
湊はメッセージアプリを開き、里桜のトーク画面をタップした。
◇◇◇
事業開発本部のフロアに到着した里桜は、自分のデスクに鞄を置いた。
始業まであと十五分。
二日酔い用のドリンクを飲もうとしたその時、バッグの中のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、『湊』の文字。
里桜の心臓が大きく跳ねた。
『出社したか』
『うん。今着いたところ』
文字を打ちながら、里桜は意を決して尋ねた。
昨夜の記憶の空白が、どうしても気になって仕方がない。
『あのさ、湊。私、昨日……何か変なこと言った?』
数秒後。
既読がつき、すぐに返信が来た。
『僕を好きだと三回言った』
「…………ッ!」
里桜はスマートフォンの画面を伏せ、机に突っ伏した。
(嘘でしょ!? 三回!?)
『それから』
追撃のメッセージが届く。
恐る恐る画面を見る。
『キスを要求した』
(死にたい)
里桜は両手で顔を覆い、本気で床に沈みたくなった。
どうしてそんなことを。
いくら酔っていたとはいえ、恥ずかしすぎる。
『あれはノーカン! 酔ってたから!』
『僕は「明日、シラフに戻った時にもう一度同じことを言え」と伝えたはずだ』
『覚えてない!』
必死の抵抗だったが、次のメッセージで完全に退路を断たれた。
『8:45。24階の北側、旧資料室に来い。監視カメラの死角だ。誰も来ない』
『行かない!』
『来ないなら、僕が今からそのフロアへ行く』
「…………っ、この横暴社長!」
里桜は小声で悪態をつきながら、周囲を気にしつつ、逃げるようにフロアを出た。
◇◇◇
二十四階、北側の旧資料室。
普段は誰も使わない、薄暗く狭い空間。
里桜が重い扉をそっと開けると、そこには既に、隙のないスーツ姿の湊が立っていた。
「み、湊……」
「遅い」
一歩足を踏み入れた瞬間。
湊の長い腕が伸び、里桜の腕を引いた。
バタン、と背後で扉が閉まる。
「ひゃっ」
気づけば、里桜の背中は冷たい壁に押し付けられ、目の前には湊の硬い胸板があった。
両手は壁に手をつかれ、完全に逃げ道を塞がれている。
いわゆる、壁ドンというやつだ。
だが、相手が高橋湊となると威圧感が桁違いだった。
「み、湊、あのね……」
「言質は取ってあると言ったはずだ」
湊の顔が近づく。
漆黒の瞳には、昨夜からずっと押し留めていた獰猛な熱が、隠しきれないほど渦巻いていた。
「シラフでも、同じリクエストか確認したい」
「っ、だから、あれは酔ってて……」
「酔っていなければ、したくないのか」
「そうじゃなくて……!」
里桜は真っ赤な顔で視線を泳がせた。
逃げたい。
でも、逃げられない。
それに、こんなに熱い目で見つめられて、彼の香りに包まれて。
本当は、したくないわけじゃない。
「……したい」
消え入るような声だった。
湊の動きがピタリと止まる。
「……聞こえないな」
「……したい、です……」
里桜がぎゅっと目を閉じ、震える声で要求を承認した、その瞬間。
「……ッ」
湊の理性が、完全に焼き切れた。
重なる唇は、昨夜のレストランでの額へのキスとは比べ物にならなかった。
甘い。熱い。
そして、容赦がない。
里桜の腰を抱き寄せ、壁と自分の身体の間に完全に閉じ込めるようにして、深く、何度も角度を変えて唇を奪う。
前夜、ギリギリで寸止めした分の飢餓感をすべてぶつけるような、圧倒的で深い口づけだった。
「んっ……ぁ、みな……と……」
里桜の膝から力が抜け、湊のスーツの胸元をぎゅっと掴む。
二日酔いの頭が、今度はアルコールではなく、彼の熱で完全に真っ白に溶かされていく。
(だめ、これ、ほんとに……)
息が続かない。
本気で食べられてしまう。
里桜が限界を感じて小さく身をよじった、その時。
「……っ」
湊が自ら、荒い息を吐きながら唇を離した。
里桜は壁にもたれかかったまま、肩で息をする。
顔は熱で茹で上がったように赤く、瞳は潤みきっていた。
湊は、里桜の肩に顔を埋めたまま、左腕の高級時計をチラリと見た。
午前八時五十三分。始業まで、あと七分。
「……タイムオーバーだ」
低く、ひどく掠れた声だった。
これ以上触れれば、本当にこの資料室で彼女を抱いてしまう。
それだけは、彼女のキャリア立場を守るためにも絶対に避けなければならない。
湊はギリギリで自制心を取り戻し、里桜の乱れた髪をそっと直した。
「……続きは、仕事の後だ」
「えっ……」
「定時で終わらせろ。迎えに行く」
湊はそれだけ言うと、里桜の額に軽くキスを落とし、颯爽と資料室を出て行った。
残された里桜は、壁にへたり込んだまま、しばらく動けなかった。
顔が熱い。心臓がうるさい。唇には、彼の熱がはっきりと残っている。
始業のチャイムが鳴る。
「……むり」
本社勤務、二日目。
里桜は、朝一番から完全に使い物にならなくなっていた。




