第四十九話:三日
ホテルを出た頃には、予定していた時刻を少し過ぎていた。
あの女がエントランスまで追いすがってきたこともあり、想定外のロスタイムが生じたためだ。
車へ乗り込んだ湊は、ドアを閉めるなりスマートフォンを取り出した。
画面には、里桜とのトーク履歴。
最後に送ったのは昼過ぎだった。
『今日は少し遅くなる。21時頃なら電話できる』
既読はついていない。
湊は一度だけ腕時計を見る。十八時四十二分。
まだ勤務中か、あるいは退勤して移動している最中かもしれない。
そう判断し、スマートフォンを伏せた。
急ぐ必要はない。
今日中に、先ほどの録音データも整理しておきたかった。
両親へ提示する前に、不要なノイズを除去し、発言の前後関係やタイムスタンプも含めて、一切の言い逃れや誤解の余地がない「完全な証拠資料」としてパッケージングしておく必要がある。
里桜にも、いずれは話さなければならない。
彼女の母親が高橋家へ接触したこと。
そして、自分がその排除に動いたこと。
ただ、今日のところは、わざわざ電話越しに報告して彼女の気分を害するような内容でもない。
そう判断していた。
◇◇◇
21:12
『帰宅したか?』
送信。
21:45
既読はつかない。
22:13
一度、電話をかけた。
規則的な呼び出し音が、五回、六回と無機質に響く。
湊は僅かに眉を寄せた。
入浴中か。あるいは、そのまま寝落ちしている可能性もある。
里桜は放っておけばいくらでも眠る。
三か月前、彼女の身体で生活した経験上、その睡眠欲の深さはよく把握していた。
『寝ているなら、明日でいい』
そう送って、その日は端末を置いた。
◇◇◇
翌朝。
やはり既読はつかない。
湊の手が止まった。
いつもなら、いくら朝が弱いとはいえ、通勤電車のなかではスマートフォンを見る。
少なくとも始業前か、遅くとも昼休憩までには必ず何らかのレスポンスがある。
どれほど忙しくても、
『ごめん! 今日バタバタしてる!』
程度の短いテキストは返してくるのが、これまでの彼女の行動パターンだった。
それがない。
湊は微かな違和感を抱えたまま出社した。
午前九時二十分。
執務室へ入ってきた神崎へ、湊は手元の資料から目を上げずに言った。
「神崎。一つ確認してくれ」
「何でしょう」
「昨日から今日にかけて、佐伯里桜に欠勤、遅刻、早退等の勤怠記録がないか」
神崎の動きがピタリと止まった。
中指が、ゆっくりと眼鏡のブリッジへ向かう。
クイ。
「……佐伯さん、ですか」
「そうだ」
「買収先子会社の、いち契約社員である佐伯里桜さんの勤怠データを、ですか」
クイ。
「ただちに確認いたします」
「余計な詮索はするな」
「一切しておりません」
「眼鏡を上げるな」
「視界の角度を調整しているだけです」
数分後。神崎が戻ってきた。
「昨日、本日ともに通常通り出勤されています。遅刻、早退、欠勤等のイレギュラーな記録もございません」
湊の眉間から、ほんの僅かに緊張が抜けた。
生きている。
通勤途中の事故でもなければ、急病で倒れているわけでもない。
しかし何故、連絡がない。
湊は手元のスマートフォンへ視線を落とした。
昨夜のメッセージ。未読。
「…………」
仮説ではなく、確定的な事実として。
明確に、避けられている。
◇◇◇
その日の昼。
里桜は休憩室で、珍しく弁当へほとんど手をつけていなかった。
向かいに座る佐藤が、心配そうに顔を覗き込む。
「里桜、なんかあった?」
「……別に」
「別にって顔じゃないけど。死にそうな顔してるよ」
里桜は箸で卵焼きを力なくつついた。
スマートフォンは、バッグの奥底に入れたまま、電源は切っていない。
だから、昨夜から何度か通知が来ていることも分かっている。
湊から、昨日の夜と今朝。そして、昼前にも一件。
怖くて、開いていない。
画面を開いて既読をつけたら、返事をしなければならない。
もし返事をして、彼の声を聞いてしまったら、絶対に抑えきれずに聞いてしまう。
――昨日、お母さんと何してたの?
――どうして二人で、ホテルから出てきたの?
そして、もし。
一番聞きたくない答えが、あの冷静な声で返ってきたら。
「……里桜?」
「大丈夫」
笑おうとした。
だが、うまく筋肉が動かず、引き攣っただけで失敗した。
佐藤がじっと里桜を見る。
「喧嘩した?」
里桜は答えなかった。それだけで、佐藤には十分だったらしい。
「……あのスパダリ社長と?」
「喧嘩じゃない」
「じゃあ何」
「分かんない……」
それ以上は、どうしても言葉にできなかった。
あの母親の異常さを説明するには、あまりにも惨めで、あまりにも多くの過去を掘り返さなければならなかったから。
◇◇◇
二日目の夜。
湊は電話をかけない代わりに、一通だけ短いテキストを送った。
『何かあったなら話してほしい。今すぐでなくてもいい』
送信。
既読はつかない。
そして、三日目。
朝、未読。
昼、未読。
夕方、未読。
湊は執務室の革張りの椅子へ深く腰を下ろした。
目の前には、今日中に決裁すべき契約書類が積まれている。
普段の処理速度なら、とっくに片付いているはずの量だ。
だが、まるで集中できない。
文字を目で追いながらも、思考のリソースの大部分が、机の上の沈黙したままのスマートフォンへ割かれている。
馬鹿げている。
私情によって業務のパフォーマンスを落とすなど、経営者として最も忌むべき非合理的な事態だ。
三日。たった三日だ。
物理的な時間としては、わずか七十二時間程度しか経過していない。
それなのに
「……長いな」
低く、独り言が漏れた。
自分で口にして、自分で不快そうに眉を寄せる。
以前なら、三か月間一切の連絡を絶っていても何の支障もなかった相手に、今はたった三日の通信遮断でこの有様だ。
ノックの音と共に、神崎が資料を持って入ってきた。
「社長。こちら、午後の会議資料です」
机へ置く。神崎が踵を返そうとする。
「神崎。今日も、佐伯は出勤しているな」
神崎の中指が、音もなく上がる。
クイ。
「はい。定刻通りに出社されております」
「……そうか」
クイ。
「何だ」
「何も申し上げておりません」
「その眼鏡を上げる動作をやめろと言っている」
「ですから、ただの視界の調整です」
神崎は至って平然と答えて退出していった。
湊は小さく舌打ちしそうになるのを堪え、再び思考の海へ沈む。
本人は出勤して、通常通り業務もこなしている。
つまり、明確な意思を持って「高橋湊との通信だけ」を遮断している。
そこまで整理したところで、湊の眉間に深い皺が刻まれた。
原因が分からない。
最後に会った日のログを脳内で巻き戻す。
彼女の部屋で料理をし、キッチンで少しばかり挑発的な態度を取った。
あれが原因か?
いや、あの時の里桜は顔を赤くして怒ってはいたが、拒絶の反応ではなかった。
現に、帰宅後にも通常通りメッセージを交わしている。
では、直近で発生したイレギュラーな事象は何だ。
――母親。
そこまで考えて、湊の思考が一瞬止まった。
いや。里桜が、自分とあの母親が接触したことを知る経路は存在しないはずだ。
あの女が里桜へ連絡したのか?
いや、仮にあの女が何かを吹き込もうと連絡したとしても、里桜自身が母親からの着信に応じるはずがない。
ましてや、それで自分を避ける理由にはならない。
「……情報が足りない」
珍しく、本当に予測がつかない。
湊は顎へ指を当てた。
原因を特定するには、直接本人と対面し、ヒアリングを行う以外にない。
子会社のオフィスへ直接行く。――却下。
親会社の社長が、特定の契約社員に会うためだけに現場へ頻繁に顔を出すなど、周囲に無用な憶測を生むだけだ。
退勤時間を狙ってビルの前で待つ。――論外。
他の社員に目撃された瞬間、彼女の社内での立場を悪化させる。
ならば、自宅へ行くか。
物理的には可能だ。
住所も把握しているし、五日間生活した部屋だ。
だが、明確に連絡を拒絶している相手のプライベート空間へ、アポイントメントなしで押し掛ける。
「……僕でも分かる。完全にアウトだな」
湊は低く呟いた。
今の状態でそれを強行すれば、ただのストーカーと変わらない。
彼女の意思を無視して恐怖を与えるような真似だけは、絶対にしてはならない。
彼女に精神的な負担や周囲からの悪評を与えず、かつ、本人が絶対に拒絶できない形で、正当に一対一で対話できる環境を構築する。
(……いや、その発想自体が既に職権乱用スレスレで大人げないが)
湊は自覚していた。
だが、三日間。
理由も開示されないまま、一方的にシャットアウトされているのだ。
こちらには、母親の件を含めて伝えるべき重要な事実がある。
そして何より、自分が何を理由に拒絶されているのか、弁明する機会くらいは与えられて然るべきだ。
湊は椅子へ深く背を預けた。
「……何か、ないか」
純粋な業務として誰の目から見ても不自然ではなく、里桜をこの社長室へ合法的に呼び出せる大義名分。
それも、彼女自身のキャリアや実績に正当な関連性がある案件。
顎に指を当てたまま、脳内で現在進行中のグループ全案件を高速で検索する。
M&A、組織再編、新規事業、人事異動、コンサルティング案件――。
湊の指がピタリと止まる。
やがて
冷徹なサイボーグの口元が、僅かに、獰猛な角度で吊り上がった。
「……これだ」




