第四十八話:負債の証明
数日後。
都内のホテルラウンジ。
平日の午後ということもあり、店内には静かなピアノの音が流れていた。
窓際には都心の景色が広がり、客同士の席も十分に離れている。
湊は指定した席で、腕時計を確認した。
約束の五分前。
テーブルの上にはスマートフォンが一台、裏返して置かれている。
録音アプリは、既に起動していた。
ほどなくして
「ごめんなさぁい、お待たせしました?」
甘ったるい声が聞こえた。
三か月前。
里桜の身体で生活していた時、自宅へ突然押しかけてきた女。
強い香水の匂いと派手な化粧。
娘に金を無心し、当然のように境界線を踏み越えてきた、あの母親だった。
ただ、今日はあの時よりさらに露骨だった。
胸元の開いたワンピースに、身体の線を強調するシルエット。
綺麗に巻かれた髪。艶のある赤い唇。
甘い香水の匂いが、席に着く前から届いてくる。
湊は一瞬だけ目を細めた。
母から聞いた「控えめで、娘を心配する上品な母親」という人物像とは、やはり随分違う。
「……いえ。時間通りです」
「よかったぁ」
女は湊の正面ではなく、何故か斜め隣の席へ、密着するような距離で腰を下ろした。
湊は何も言わず、表情も変えなかった。
むしろ都合がいい。
相手が自分をどう認識し、何を目的として接触してくるのか。
必要なのは推測ではなく、客観的な事実だ。
「今日はお時間作ってくださって、本当にありがとうございます」
「こちらこそ。両親からは、娘を案じる非常に愛情深いお母様だと伺っています」
湊が淡々と餌を撒く。
女は嬉しそうに、くすくすと笑った。
「お母様、とっても素敵な方ね。私、すっかり安心しちゃった。でも……実は今日、里桜のことじゃなくて、高橋さんに個人的にお話があって来たの」
「僕に、ですか」
「ええ」
女の視線が、湊の顔から、仕立てのいいスーツの胸元、そして腕の高級時計へと値踏みするように舐め回す。
「高橋さんって、本当に里桜と付き合ってるんですか?」
「何故、そのような疑問を持たれるのですか」
「だってぇ。もったいないなって」
「…………」
「高橋さんみたいな完璧な人が、なんで里桜なの? 学歴もないし、仕事だってただの契約社員でしょ。あの子、男の扱いだって全然知らないし」
娘を語る声ではなかった。
完全に、自分の獲物を品定めする女の目だ。
「でしょ? 私なら分かるもん。高橋さんみたいな男って、あの子じゃ絶対に物足りないはずよ」
椅子ごと僅かに距離を詰める。
甘い香水の匂いが鼻をついた。
「ねえ、高橋さん。ううん、湊くん」
女の声が露骨に甘く、低くなる。
テーブルの下で身を乗り出し、湊の耳元へ顔を近づけた。
「里桜より、私の方が湊くんのこと、絶対に満足させてあげられる」
「…………」
「私、こう見えて経験あるし。あの子には内緒にしてあげるから――」
女の指が、湊のネクタイへ触れようとした。
その瞬間、湊が、女の手首を掴んだ。
決して強くはない。
だが、万力のように固定され、そこから一ミリも先へ進ませない。
「……高橋さん?」
女が上目遣いで微笑む。
だが、湊の目を見た瞬間、その笑みが凍りついた。
先ほどまで穏やかに相槌を打っていた男の目から、完全に温度が消え失せている。
無機質で、冷徹な、まるで無価値なゴミでも見るような漆黒の瞳。
「なるほど。あなたの手口はよく分かりました」
「え……?」
「そうやって男に取り入り、他人の資産に寄生して生きてきたわけですね」
湊は冷たく手を離すと、静かに自分のネクタイを整えた。
「あなたの言う通り、里桜にはあなたのような狡猾さはない。だからこそ、自分の母親に騙され、自身の与信枠を差し出してしまった」
「……何、急に。何の話?」
女の顔が引き攣る。
「消費者金融からの借入のことです。あなたが自分の名義で借りられないからと、娘を言いくるめて契約させた借金の話をしている」
「し、借金? 何のこと? 私知らないわよそんなの。あの子が勝手にやったんじゃないの?」
女は露骨に目を逸らし、しらばっくれた。
だが、湊は全く動じない。
「知らない、で通せると本気で思っているのですか。彼女の口座の入出金履歴、当時の契約書、そして返済記録。金の流れを追えば、最終的な受益者があなたであることは一目で証明できます。法的に争えば、あなたは詐欺罪、あるいは恐喝の罪に問われる可能性が高い」
「なっ……」
「娘の人生を食いつぶし、挙句の果てには娘の交際相手にまで身体を対価にして取り入ろうとする。……合理的ですね。倫理観を完全に欠如させれば、それだけ効率的に他者から搾取できる」
「ちょっと、何様なのよアンタ!」
女の声から、先ほどまでの甘ったるさが完全に消し飛び、ヒステリックな怒声に変わった。
「大袈裟なのよ! 親子なんだから、お金がない時くらい助けるの普通でしょ! 私が産んで育ててやったんだから、あの子のものは私のものよ!」
「育てる? 祖父母へ押し付けておきながらですか」
「親の都合があるでしょ! それにちゃんと育ったじゃない!」
湊は、一つだけ小さく息を吐いた。
「……確認できました」
「はあ!?」
湊はテーブルの上のスマートフォンへ手を伸ばし、画面を一度タップした。
『録音を停止しました』という無機質な表示が出る。
女の表情が、完全に停止した。
「……え、ちょっと……録ってたの?」
「ええ。あなた自身の認識を引き出すために」
「勝手に!?」
「僕自身が当事者である会話です。法的にも何の問題もありません」
湊の目は、氷のように冷たかった。
「あなたは先日、僕の両親に対して『娘に誤解されて避けられている悲しい母親』という嘘のプレゼンをした。だが、この音声データがあれば、僕の両親があなたを評価する合理的根拠は完全に消失します」
「なによ、それ……卑怯じゃない!」
「リスク管理です。あなたのような人間に、僕の領域を荒らされるわけにはいかない」
湊はスマートフォンをポケットへ入れた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「今後一切、僕の両親及び、僕の周囲へ接触しないでください。次に現れた場合は、過去の借金に関する法的手続きを含め、社会的に徹底的な対応を払っていただきます」
見下ろす湊の威圧感に、女は言葉を失い、顔を歪ませて震えていた。
◇◇◇
その頃、里桜は仕事を終え、いつもの駅へ向かって歩いていた。
今日は帰りにスーパーへ寄るつもりだった。
冷蔵庫にはまだ作り置きが残っているが、卵と牛乳がもうない。
そんなことを考えながら、駅前の大通りへ出る。
その時だった。
「…………え?」
足が止まった。
大通りに面したホテルのエントランスから、一人の男が出てきた。
見間違えるはずがない。
背の高い身体、仕立てのいい濃紺のスーツ、何度も隣を歩いた、あの後ろ姿。
「……湊?」
声をかけようと一歩踏み出した、その瞬間、ホテルの自動ドアがもう一度開いた。
「ちょっと待ってよ!」
派手な女が、湊を追うように飛び出してくる。
里桜の身体が凍った。
「…………」
鮮やかなワンピース。
綺麗に巻かれた髪。
遠目でも分かる、強い化粧。
忘れるはずのない顔。
「……お母さん?」
頭が理解するより先に、母親が湊の腕へ手を伸ばした。
「ねえ、そんな怒らなくてもいいじゃない」
湊がその手を振り払う。
何かを言っている。
けれど、距離があるせいで聞こえない。
ホテルから出てきた湊。
そのすぐ後を追ってきた母親。
そして、二人が、自分の知らないところで会っていたという事実だけを里桜は認識していた。
「…………なんで」
手にしていたバッグの持ち手を、無意識に強く握る。
(湊とお母さんが。なんで、二人で会ってるの?)
胸の奥が冷たくなる。
つい数日前まで、あれほど熱かった場所が、一瞬で凍りついていくようだった。
ずっと思い出さないようにしていた声が、突然、鮮明に蘇った。
『ごめんね、里桜。またママがもらっちゃった』
昔からそうだった。
母親は、自分のものと他人のものの境界がない。
自分が大切にしたもの、自分が好きになったもの、自分がようやく手に入れたもの。
それを見つけると、いつも平然と手を伸ばしてきた。
そして、自分より簡単に手に入れてしまう。
(……息が、できない)
里桜の目が、湊へ向く。
湊は母親を見ている。
母親と男が二人で会っている。
過去の記憶が、今目の前にある光景へ勝手に意味を与えていく。
(湊まで……)
喉の奥が痛い。
昨日まで、あんなに幸せだったのに。
名前を呼ばれて、キスをして。
また会おうって。
ようやく、自分にもこんなことがあるのかもしれないと思い始めたのに。
里桜は一歩、後ろへ下がった。
ただ見つからないように身体を翻し、来た道を戻る。
逃げるように。
今は、何も聞きたくなかった。




