第四十七話:ファクト(客観的証拠)
数日後。
高橋家の門前に、一人の女が立っていた。
上品な色のワンピースに、小ぶりのブランドバッグ。
髪も化粧も隙なく整えられている。
手には、老舗菓子店の紙袋。
里桜の母親だった。
「……ここね」
先日、遠くから確認した邸宅を見上げる。
弁護士から警告は受けている。
里桜本人への接触は控えるように、と。
女は、にやりと笑った。
「里桜に近づかなきゃいいんでしょ」
高橋湊にも、その両親にも。
今のところ、自分が接触してはいけないなどとは、あの警告文のどこにも書かれていない。
「じゃあ、問題ないじゃん」
菓子折りを持ち直し、何事もない顔でインターホンを押した。
◇◇◇
「突然申し訳ございません」
応接室へ案内された女は、深々と頭を下げた。
先日までの派手な雰囲気は完全に消えている。
声は控えめで、姿勢も美しい。
そして何より、娘を心から案じる母親の顔を作ることに、一切の迷いがなかった。
「私、佐伯里桜の母でございます」
湊の母親が目を見開いた。
「まあ……里桜さんのお母様?」
「はい。先日は娘がお世話になったと伺いまして。どうしても一度、ご挨拶だけでもと思って」
差し出された菓子折りを見て、同席した湊の父親も僅かに表情を和らげる。
「これはご丁寧に」
「いえ。むしろこちらがお礼を申し上げなくてはいけないくらいで……」
そこで女は、少し困ったように微笑んだ。
「ただ、あいにく里桜は……私のことを毛嫌いしているようで」
「毛嫌い?」
湊の母親が眉を寄せる。
女はすぐに首を横に振った。
「いえ、あの子が悪いわけではないんです。若い頃は私も余裕がなくて、あの子には苦労をさせましたから。でも……」
伏せた目元。
僅かに震える声。
……完璧だった。
「少し前に連絡をした時、あの子、私がお金を無心しに来たのだと誤解してしまって……。それ以来、電話にも出てくれないんです」
「まあ……お金の無心を?」
「ええ。私としては、ただ純粋に娘の声が聞きたかっただけなのですが……」
目尻をそっとハンカチで押さえる。
「それでも、母親ですから。あの子には幸せになってほしいんです。里桜が素敵な方とお付き合いしていると知って、本当に安心しました。ただ……私が近づくと、あの子はまた感情的になってしまうでしょうから」
寂しそうに笑う。
「せめて、高橋様のご家族へご挨拶だけでもと思いまして」
その姿だけを見れば、誤解によって娘に拒絶され、深く傷ついている一人の悲しい母親にしか見えない。
だからこそ。
湊の両親の中に、小さな疑問が生まれた。
――いくら過去にすれ違いがあったとはいえ、こんなに愛情深い母親をあそこまで冷たく拒絶するとは。里桜さんは少し、意固地になりすぎているのではないか。
◇◇◇
その日の夕方。
湊のスマートフォンが鳴った。
表示された名前を見て、湊は仕事用の資料から目を離す。
「母さん?」
『湊。今、少しいい?』
「何ですか」
母親の声は、いつもより少し困惑していた。
『今日ね、里桜さんのお母様がいらしたの』
湊の表情が消えた。
「……何?」
声が一段低くなる。
『とても丁寧な方だったわよ。菓子折りまで持ってきてくださって。湊、あなた、お母様が里桜さんに酷く避けられているって知っていたの?』
湊は黙った。
『いくら親子で喧嘩をしたからといって、あんなに心配しているお母様を無視するなんて……里桜さん、少し親不孝というか、意固地になりすぎているんじゃないかしら』
「母さん」
静かな、しかしひどく冷たい声で遮る。
『なに?』
「その人の言葉を、額面通りに受け取らないでください。情報元が一方的すぎます」
電話の向こうで沈黙が落ちた。
『……どういうこと? それなら、あの人が嘘をついているとでも言うの?』
「詳しくは、僕の口から話すべきことではありません」
里桜の過去だ。
勝手に借金を作られたこと。
男を優先し、幼い頃に祖父母へ押し付けたこと。
それは彼女のプライバシーであり、本人の許可なく僕が勝手に両親へ開示することは、彼女への明らかな裏切りになる。
だが、あの女が高橋家へ接触し、見事なプレゼンで両親の里桜に対する評価を下げようとしている。
それだけは、絶対に看過できない。
『でもね、湊。私には、とても娘さんを心配しているお母様に見えたのよ』
「…………」
湊の目が冷たく細められた。
そう見せたのだろう。
むしろ、そう見せることに長けている。
だからこそ厄介なのだ。
「分かりました」
『湊?』
「こちらで対応します。母さんたちは、今後あの人と一切接触しないでください」
低く、断定的な声だった。
電話を切った後。湊はしばらく無言でスマートフォンを見つめていた。
そして、ゆっくりと椅子へ背を預ける。
あの女の本性を、自分は知っている。
だが、僕の証言だけでは、すっかり騙されている両親を論理的に説得しきれない。
両親の認識を根底から覆し、あの女を完全に排除するためには。
第三者が見ても絶対に否定できない「客観的証拠」が必要だ。
湊は机の上のスマートフォンを取り上げた。
呼び出したのは、先ほどまで話していた母親ではない。
実家の応接室の防犯カメラの記録、あるいは来訪者リストを管理している神崎への直通ライン。
あの女の連絡先を割り出し、直接コンタクトを取る。
油断させ、本性を引きずり出し、その全てをデータとして録音する。
スマートフォンの画面をタップする湊の表情は、完全に、冷酷な経営者のそれへ戻っていた。




