第四十六話:今日は、君の番だ
仕事を終えて会社を出ると、見慣れ始めた漆黒の車が道路脇に停まっていた。
見慣れた、と言っても、周囲の風景に馴染んでいるわけではない。
むしろ逆だ。
仕事帰りの会社員や自転車が行き交う中、低く構えた艶のある車体だけが、露骨なまでに異質だった。
そして運転席には、今日も高橋湊がいる。
里桜が近づくと、湊は助手席のロックを解除した。
「定時退社だな」
「お疲れ様」
車に乗り込み、シートベルトを締める。
「で、ほんとにスーパー来るの?」
「そのために迎えに来たと言っただろう」
「いや、そうなんだけど」
里桜はちらりと湊を見る。
今日は仕事帰りだ。当然、いつもの仕立てのいいスーツ姿である。
三つ揃いではないものの、濃紺のスーツに白いシャツ、腕には見慣れた時計。
どう見ても、これから庶民スーパーで大根を選ぶ男ではない。
「……絶対浮くよ」
「スーパーという商業施設に入るだけだろう。何の問題がある」
「その認識でいられるのすごいね」
意味が分からないという顔をされ、里桜は早々に諦めた。
◇◇◇
案の定、浮いた。
ものすごく浮いた。
夕方のスーパー。
仕事帰りの主婦や学生、子供連れの家族が行き交う中で、高級スーツ姿の男が真剣な顔でショッピングカートを押している。
しかも顔が良すぎて、無駄に目立つ。
里桜は野菜売り場で長ネギを手に取りながら、何度目か分からないため息をついた。
「だから言ったじゃん」
「何がだ」
「見られてる」
「僕が?」
「他に誰がいるの」
湊は一度周囲へ視線を向けた。
確かに、ちらちらとこちらを見る女性が何人かいる。
しかし本人は特に気にした様子もなく、里桜の持っている長ネギを見る。
「それはいくらだ」
「二本で百九十八円」
「こちらは?」
隣の棚に並ぶ別産地のものを手に取る。
「二本で二百四十八円」
「五十円差か」
「そう」
「鮮度はこちらの方がいい」
「うん。でも今日は味噌汁と炒め物に使うだけだから、こっちでいいの」
百九十八円の方をカゴへ入れる。湊が眉を寄せた。
「鮮度を優先しないのか」
「十分新鮮だし。五十円高い方を買う理由がない」
「五十円だぞ」
「五十円を笑う者は五十円に泣くの」
「聞いたことがない」
「今作った」
湊が一瞬黙った。
「そうか。君の経済観念に基づく独自の指標というわけだ」
妙に納得した顔をする。里桜は思わず笑った。
次は大根。
里桜が一本ずつ持ち上げ、葉の付け根を見たり、重さを比べたりしている横で、湊も真似をする。
「これはどうだ」
「ちょっと軽い」
「では、こっちは?」
「それいいかも」
「価格差はないな」
「大根にまで費用対効果持ち込まないで」
「合理的に選んでいるだけだ」
「大根一本に経営判断いらないの」
湊はそれでも真剣だった。
里桜が普段何気なくしていることを、一つずつ観察している。
鶏肉は百グラムあたりの価格を見る。
豆腐は賞味期限を確認する。
卵は残りの在庫を思い出して必要数だけ買う。
派手なことは何もない。
ただの生活だ。
だが湊にとっては、三か月前とは違って見えた。
あの時は、この生活を自分が代行していた。
今は、本来の持ち主が隣にいる。
「何?」
里桜がこちらを見る。
「本来の君がこうやって買い物をしているのを見るのは、初めてだからな」
里桜が僅かに目を丸くした。
その後、少しだけ照れたように笑う。
里桜の周りの空気が、ふわっと花が咲いたように軽やかに弾む。
「……そっか」
その表情を見て、湊は自然と口元を緩めた。
◇◇◇
買い物を終える頃には、高級車のトランクには鶏肉、大根、長ネギ、豆腐、卵、えのき、調味料が整然と並んでいた。
絵面だけを見れば、車の用途を何か間違えている。
だが湊は気にしていなかった。
むしろ、妙に満足していた。
◇◇◇
三か月ぶりに里桜の部屋へ入った瞬間。
湊は、僅かに足を止めた。
見覚えのある玄関、小さな廊下。
リビングへ続く配置も、家具も、カーテンも変わっていない。
三か月前。五日間だけ、自分はここで暮らしていた。
あの時は低血圧の身体で朝起きることに苦戦し、慣れない電車に乗り、里桜の職場へ通った。
作り置きされた料理を食べ、このソファに座り、この部屋で眠った。
たった五日。それだけだ。
なのに。
妙に懐かしい。
いや、懐かしいという言葉とも少し違う。
恋しい。そんな言葉の方が近いのかもしれない。
「湊?」
里桜が振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
湊は室内を見回した。
「何も変わっていないなと確認しただけだ」
「三か月くらいじゃ、そんな変わらないよ」
そう言いながら、里桜は買ってきた袋を抱えてキッチンへ向かった。
湊も後に続く。
そこで、改めて思う。
狭い。
自宅の広いアイランドキッチンとは違う。
二人で立てば、当然のように肩が触れる。
「ちょっと詰めて」
「これ以上は壁だ」
「じゃあそっち寄って」
「そこには冷蔵庫がある」
「もう!」
里桜が笑いながら身体をずらす。
そのたびに、腕が触れる。肩が触れる。
ほんの僅かな接触のはずなのに、昨日の記憶があるせいで、互いに妙に意識してしまう。
里桜は髪をまとめ、エプロンをつけると、慣れた手つきで食材を並べた。
少しして、里桜が高い棚にあるボウルへ手を伸ばした。
「あれ、届かない」
背伸びする。あと少し。
その時、背後から腕が伸びた。
「これか」
低い声が耳元に落ちる。
「っ……」
里桜の身体が固まった。
湊の硬い胸が、背中すれすれにある。
腕が自分の横を通り、棚からボウルを取る。
息が直接耳にかかる距離。
「はい」
「……ありがと」
声が小さくなる。
湊は何事もなかったようにボウルを渡した。だが、里桜は完全に動揺していた。
(近いって……)
昨日あれだけのキスをした。
だからこそ余計に、何でもない接触がまずい。しかも狭い。逃げ場がない。
「里桜」
「なに」
「手元が危ない」
「え?」
振り返ろうとすると、湊がさらに背後から覗き込んだ。
「ちょ……近い!」
「刃物を扱うタスクにおいて、その動揺はリスクが高い」
「分かったから離れて!」
「僕が離れれば、君の集中力は元に戻るのか?」
「戻るから!」
里桜の耳まで赤い。
湊はその反応を見て、してやったというように僅かに笑った。
◇◇◇
やがて料理が出来上がった。
煮物。味噌汁。炒め物。週の途中まで持つ程度の作り置きもいくつか。
里桜が小皿に煮物を取り、箸で一口分をつまむ。
「味見して」
差し出されたそれを、湊はそのまま口に入れた。
「どう?」
「……美味しい」
「ほんと?」
「ああ」
里桜がほっとしたように笑う。
その瞬間。
湊は、里桜の腰へ手を回した。
「え」
軽く引き寄せる。
里桜の身体が、自然と湊の方へ近づいた。
背後にはキッチンカウンター。逃げ場がない。
「み、湊?」
湊は何も答えない。
そのまま顔を近づける。里桜の呼吸が止まる。
昨日の記憶が一気に蘇った。
「……昨日」
低い声。
「理性がもたないと言ったのを、忘れたのか」
「わ、忘れてない……」
「なら、そんな無防備な顔で笑うな」
「そんな顔って何よ」
「今の顔だ」
湊の指が、里桜の顎に触れる。
そのまま、ゆっくり持ち上げる。
里桜の目が大きくなる。
吐息が触れる。
唇まで、あとほんの僅か。
里桜は無意識に目を閉じた。
身体が熱い。昨日と同じように、キスされる。
そう思った。
だが
いつまで経っても、唇は重ならない。
「…………?」
恐る恐る目を開ける。
すぐ目の前に、湊の顔がある。
そして……
笑っていた。ほんの僅かに。
「何よ」
湊はそのまま数秒、里桜を見つめた。
そして、何事もなかったように手を離した。
「食べよう」
「…………は?」
湊は既にテーブルの方へ向かっている。
里桜はカウンターにもたれたまま、固まった。
顔が熱い。身体も熱い。心臓は馬鹿みたいに鳴っている。
「ちょっと!」
湊が振り返る。
「何だ」
「今の何!?」
「何のことだ。食事が冷めるぞ」
「そういう問題じゃない!」
湊は僅かに口元を上げた。
「昨日は僕が理性を試された」
「…………」
「今日は、君の番だ」
「性格悪っ!」
里桜の声が狭い部屋に響く。
湊は何事もなかったように椅子へ座った。その顔には、珍しく明確な満足感が浮かんでいた。
里桜は真っ赤な顔のまま、しばらく動けなかった。
高橋湊。
恋愛経験が乏しい男だと思っていた。
訂正する。
この男。
学習速度だけは、異常に速い。
◇◇◇
同じ頃。
薄暗いワンルームの自室で、女――里桜の母親は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
検索窓に入力したのは『高橋湊』という名前。
先日の豪邸の表札と、ブランドショップでの異常な待遇。それだけの手掛かりから素性を割り出すのに、さほど時間はかからなかった。
画面に表示されているのは、経済誌のウェブ記事。
そこには、見覚えのある整った顔の男が、完璧なスーツ姿で静かに視線を向けている写真が掲載されていた。
『若きカリスマ。グループを牽引する敏腕社長・高橋湊の素顔』
「……社長?」
女の目が、ギラリと光った。
単なる金持ちの坊ちゃんではない。想像を遥かに超える、とんでもない大物だ。
弁護士から送られてきた警告文が脳裏をよぎる。
『佐伯里桜への一切の接触を禁ずる』
接触すれば、即座に法的手段に出るという冷徹な脅し。
「……里桜には、ね」
女はスマートフォンの画面を指でなぞりながら、ひときわ深く、ねっとりとした笑みを浮かべた。
娘には近づけない。
だが、相手の実家や両親に近づいてはならないとは、あの紙のどこにも書かれていなかった。
「あの立派なお屋敷に住んでた、人の良さそうなご両親……」
女の赤い唇が、三日月のように歪む。
「ご挨拶に伺わないとねぇ。母親として」
毒蜘蛛が網を張るような、暗く歪んだ笑い声が、狭い部屋に響いた。




