第四十五話:初めての春
翌日の昼休み。
里桜が休憩室の椅子に腰を下ろした途端、向かいに座っていた佐藤が待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ねぇ、里桜」
「ん?」
弁当箱を開けようとしていた里桜が顔を上げる。佐藤はにやりと笑った。
「昨日どうだったの?」
「……何が?」
「何が、じゃないでしょ。この前、次の日曜日に会うって言ってたじゃん。どう考えてもデートだったでしょ?」
里桜の手が止まった。
「…………」
「何、その沈黙」
「…………」
「まさか」
佐藤の目が細くなる。里桜の肩が、ぴくりと揺れた。
「…………」
その反応を見た佐藤は、一気に声を潜めた。
「ヤリモク?」
「ブフォッ!」
里桜は飲みかけていたお茶を盛大にむせた。
「ち、違うってば!」
「だって今、ものすごく怪しい間があったじゃん」
「違うの! むしろ逆っていうか!」
「逆?」
佐藤は少し考えたあと、すぐに理解したらしい。
「ああ。じゃあ、そこまでは至ってないんだ」
「……うん」
里桜は耳まで赤くしながら、弁当箱へ視線を落とした。
正確には、そこまで至っていないどころではない。
唇は重なった。それも、自分の人生の中で一番深く、頭が真っ白になるほど。
ただ、その先へ進もうとしたのを止めたのは湊だった。思い出した途端、また顔が熱くなる。
「で? どんなデートしたの?」
「……実家に連れていかれた」
「へ?」
「ご両親に紹介された」
佐藤は数秒、固まった。
「待って。この前、初対面だったんじゃないの?」
「……うん」
「実家って、そっちの実家?」
「多分、佐藤ちゃんが思ってるそっち」
「マジで?」
里桜は無言で頷いた。
佐藤は思わず周囲を見回し、誰もこちらの会話を聞いていないことを確認してから、さらに声を落とした。
「それ、結婚前提ってことじゃないの?」
「シーッ!」
「ごめんごめん。でもマジ?」
「……マジ」
自分で答えながら、里桜自身もまだ現実感がない。
昨日まで恋人ですらなかったはずなのに、湊は両親の前で堂々と「里桜となら築いていける」と言った。
その後、自宅へ連れていかれ、そして。
「で、ご両親に会って終わり?」
佐藤の追及は終わらない。里桜はしばらく黙ったあと、妙に神妙な顔で口を開いた。
「……その後、湊の家に行って」
「うん」
「接吻をいたしました」
「令和の時代に接吻って。武士かよ」
「だって普通に言うの恥ずかしいんだもん!」
佐藤は完全に面白がっている。
「それで?」
「それで……理性がなくなりそうだから今日は帰す、とか言われて」
今度は佐藤が黙った。里桜が恐る恐る顔を上げる。
「何?」
「そんなスパダリ、現実に存在するの?」
「私に聞かないでよ。私だって何が何だか分かんないんだから」
里桜は両手で顔を覆った。
佐藤はしばらくそんな友人を眺めていたが、やがて呆れたように笑った。
「でもさ、めちゃくちゃ幸せそうだよ、里桜」
「…………」
里桜は返事をしなかった。
ただ、顔を隠している指の隙間から見える耳だけが、さらに赤くなった。
◇◇◇
同じ頃。
朝一番の会議を終えた湊は、席へ戻るなり腕時計へ目を落とした。
時刻は十一時四十七分。
里桜の勤務形態を考えれば、そろそろ昼休憩に入る可能性が高い。
「神崎。午後の予定は十四時からで間違いないな」
「はい。十四時より事業戦略会議、その後十五時三十分より――」
「念のため、その後ももう一度」
神崎の指が止まった。
ほんの僅かな間の後、中指が眼鏡のブリッジを押し上げる。
「十五時三十分より投資先企業とのオンラインミーティング。十六時四十五分より法務部との協議。十八時以降は現時点で確定した予定はございません」
「そうか」
「はい」
湊は何でもない顔で頷いた。神崎も何も言わない。
ただし、もう一度眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……何だ」
「何も」
「ならいい」
「失礼いたします」
神崎が執務室を出る。
扉が閉まるや否や、湊はスマートフォンを手に取った。
里桜の名前を開く。僅かな逡巡すらなく、発信ボタンを押した。
◇◇◇
休憩室で佐藤の事情聴取を受けていた里桜のスマートフォンが震えた。
画面を見た瞬間、里桜の身体が固まる。
「……え」
「誰?」
佐藤が覗き込む。表示されている名前を見た瞬間、両手で口を覆った。
「キャーッ! 早く出て!」
「ちょっと待って、心の準備が!」
「昨日キスまでした相手に何の準備がいるのよ!」
「それを言うな!」
結局、佐藤に急かされるまま通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
『里桜』
下の名前で呼ばれただけで、昨日の記憶が一気に蘇る。
額が触れた距離。頬を包んだ大きな手。低く掠れた声。
里桜は無意識に唇へ指を当てた。向かいでは佐藤がそれを見て、また口元を押さえている。
『時間が空いた。少し話せるか?』
「う、うん。今休憩中だから大丈夫」
それだけなのに、湊の声が少し柔らかくなった気がした。
『今日、仕事帰りに何か予定はあるか?』
「今日?」
里桜は考える。
「今日は作り置きしようと思ってるから、スーパー寄って帰ろうかなって」
『作り置き』
「うん」
電話の向こうで少し沈黙があった。
『なら、食材の調達と調理には僕も同行する』
「…………え?」
里桜の声が裏返った。向かいにいる佐藤の目も、一気に見開かれる。
「同行するって、湊が?」
『昨夜、君は「今度一緒にご飯を作ろう」と提案したはずだ』
「そ、それは湊の部屋でって話でしょ! まだお鍋も買ってないのに!」
『だからだ。僕の部屋のインフラが整うまでは、君の部屋の既存設備を活用するのが最も合理的だ』
「いや、屁理屈!昨日は安全なうちに帰すって言ったじゃん!」
『昨日は、だ。それに、今日は料理という明確なタスクがある』
完全に理屈で逃げ道を塞がれ、里桜は絶句した。
「……それ、ただ私の家に来たいだけじゃん」
文句を言うように呟くと、電話の向こうでふっと短く笑う息遣いが聞こえた。
『……何か問題があるか?僕が君に会いたいだけだ』
里桜は黙った。
佐藤も黙った。
電話の向こうの湊だけが、その真っ直ぐな言葉の威力をまるで理解していないようだった。
「……分かった」
真っ赤な顔で、ようやくそれだけ答える。
『十八時半頃なら迎えに行ける。仕事が終わったら連絡してくれ』
「うん」
『また後で』
「……また後で」
通話が切れた。
しばらく、里桜はスマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。
そして、ゆっくり正面を見る。
佐藤が、とんでもなく楽しそうな顔をしていた。
「……何」
「いやぁ。甘すぎて死ぬかと思た」
里桜は答えず、スマートフォンを伏せた。
◇◇◇
一方。
神崎が書類を届けるため、再び社長室へ入った時、湊はちょうどスマートフォンを机へ置いたところだった。
普段と大きく表情が違うわけではない。だが、長年近くで仕事をしてきた神崎には分かる。
機嫌がいい。しかも、かなり。
「こちら、先ほどご依頼いただいた資料です」
「ああ。置いてくれ」
神崎は書類を机へ置きながら、何気なく時計を見る。
先ほど自分が退出してから、まだ十分少々しか経っていない。
誰と話していたかなど、聞く必要もない。
神崎は無言で、眼鏡のブリッジを押し上げた。
社長に女性の影がなかったわけではない。
数年前、交際していた女性がいたことも知っている。
相手は経営者だった。
聡明で、家柄もよく、互いの人脈や事業にとっても利益のある相手。
社長にとって恋愛は、仕事や人生設計の延長線上に置かれるものだった。
会うのは互いの予定が合う時。仕事を優先することに、双方異論はない。
感情で予定を変えることもなければ、僅かな空き時間を見つけて自分から連絡を取ることもなかった。
少なくとも、神崎の記憶にはない。
では、今の社長は何だ。
次の会議まで十二分あるからと、即座に佐伯里桜へ返信する。
昼休憩に入るであろう時間を把握して電話をかける。
午後の予定を二度確認し、退勤後に会える時間まで確保しようとしている。
神崎はもう一度、中指で静かに眼鏡を押し上げた。
(そうですか)
机の向こうでは、湊が既に何事もなかったような顔で次の資料を開いている。
だが、神崎には分かってしまった。
(社長は)
ほんの僅かに、眼鏡の奥の目を細める。
(初めての春を迎えているのですね)




