第四十四話:僕の理性がもたない
唇が離れたのは、どちらからだったのか分からなかった。
いや。
離したのは、湊だった。
深く、息もできないほど溶け合うように重なっていた唇を自ら引き離すと、湊はそのまま里桜の熱い頬を包んでいた両手を残し、重く、荒い息を吐き出す。
そして、湊の額が、里桜の額にこつんと触れた。
近い。
まだ互いの乱れた呼吸が混ざり合うほど近い。
里桜は目を開けることもできず、ただ自分の心臓が耳の奥で激しく、痛いほどに鳴っているのを聞いていた。
ドレス越しに触れ合う身体の熱と、彼から漂う微かなウッディな香りが、頭の芯まで麻痺させていくようだった。
「……これ以上は」
湊の声が、ひどく掠れていた。
いつもの、腹の底に響くような低い彼の声に、今は抑えきれない熱と渇きが混じっている。
「僕の理性がもたない」
その言葉に、里桜がゆっくりと重い瞼を開ける。
すぐ目の前にいたのは、いつもの隙のない余裕を纏った高橋湊ではなかった。
彫刻のように端正な顔立ちには明らかな余裕のなさが浮かび、呼吸は乱れ、里桜を見つめる漆黒の瞳には隠しきれない熱が燻っている。
それでも、自分の中の暴れ狂う何かを必死に押し留めようと、ギリッと奥歯を噛み締めていた。
「今日は、安全なうちに君を帰す」
「…………」
里桜は何も言えなかった。
こんな顔をするんだ、この人も。
何でも分かって、何でも自分で制御できて、いつだって冷静で。
感情で動くことなんてない、自分とは住む世界が違う「サイボーグ」のような人だと思っていた。
でも今は、目の前の女に触れたいという痛切な感情を、必死に理性の檻に閉じ込めようとしている。
自分の欲求よりも、里桜のペースや安全を守るために、ギリギリのところで踏みとどまっている。
それが分かった瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
嫌われていないとか、求められているとか。
そんなことよりも。
―――ちゃんと、大切にされている。
雑に扱われたり、流されたりするんじゃなくて、一個の人間として尊重されている。
その事実の方が、今の里桜の心には何よりも強く、甘く響いた。
湊はしばらくそのまま額を合わせて、里桜の体温を確かめるようにじっと目を閉じていた。
やがて一度大きく、深く息を吐き、名残惜しそうにゆっくりと身体を離した。
「……送る」
「うん」
里桜も、それ以上は何も言わなかった。
もしここで言葉にしてしまったら、今度は自分の方が、胸に溢れるこの熱い感情を止められなくなりそうだったから。
◇◇◇
少しの沈黙の後、帰る支度を済ませた里桜は、湊の背中を追って玄関へ向かう長い廊下を歩いていた。
先ほどの熱がまだ全身の皮膚に燻っていて、足元が少しふわふわしている。
静かなマンションの廊下に、二人の足音だけが微かに響く。
それでも、里桜はふと足を止めた。
「あの、湊」
「何だ」
少し前を歩いていた湊が、静かに振り返る。
里桜は少し迷った。
今日の昼間、彼の実家で、彼の両親を前にして言われた言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
『里桜となら、僕は築いていけると思っています』
あれは、本当に。
「今日、ご両親に話してたこと」
「……ああ」
「その」
言いづらい。
聞きたいのに、答えを聞くのが怖い。
もしあれが、あの場を収めるための単なる方便だったり、両親を納得させるための彼の「合理的な最適解」だったりしたら。
そう思うと、足がすくむ。
里桜は視線を床に落とし、泳がせながら、それでも勇気を振り絞ってようやく口にした。
「本気なの?」
湊はすぐには答えなかった。
静寂が落ちる。
静かな廊下で、鼓動がまた、早くなる。
やがて、靴音がした。
湊が、里桜の目の前までゆっくりと歩いてくる。
そして。
ぽん、と。
大きくて温かい手が、里桜の頭に優しく乗った。
「僕は、そのつもりだ」
里桜が弾かれたように顔を上げる。
湊の表情は、どこまでも真剣だった。
冗談でも、両親を納得させるための演技でもない。
一点の曇りもない真っ直ぐな漆黒の瞳を見れば、それが紛れもない本心だと分かる。
ただ、湊はそこで一度言葉を切った。
完璧な彼にしては珍しく、少し言いにくそうに視線を僅かに逸らす。
ふと見えた耳の端が、微かに赤みを帯びているように見えた。
そして、小さく付け足した。
「……里桜さえ、良ければ」
「…………!」
里桜の目が、限界まで大きくなる。
まただ。また心臓がうるさい。
今日だけで何回こうなれば気が済むのだろう。
顔も、たぶん茹でダコみたいに真っ赤だ。
でも、嫌じゃない。
むしろ、どうしようもないくらい、嬉しい。
「……はい」
顔から火が出そうで、ただそれだけを言うのが精一杯だった。
◇◇◇
玄関まで来たところで、靴を履こうとした里桜は、ふと思い出したようにリビングの方を振り返った。
「そうだ」
「何だ」
「ぬいぐるみ」
湊が怪訝そうに眉を寄せる。
「三か月前に買った、うさぎ」
視線の先。
広くて無機質なモデルルームのようなリビングのソファには、あの時里桜が勝手に増やしたファンシーなうさぎのぬいぐるみ達が、置かれたままになっていた。
「持って帰るのか?」
里桜は少しだけ考えた。
そして、ふっと悪戯っぽく笑う。
「ううん」
「?」
「置いといてもらってもいい?」
「僕は一向に構わないが」
湊は不思議そうに里桜を見る。
「持って帰らないのか?」
里桜は靴を履き終えると、振り返った。
頬にはまだ少しだけ、さっきの熱と赤みが残っている。
それでも、ピンと背筋を伸ばし、湊の目を真っ直ぐに見た。
「またすぐ、くると思うから」
「…………」
今度は、湊が黙る番だった。
一瞬フリーズし、彼女の言葉の意味を脳内で処理した直後。
冷徹なサイボーグ社長は、不意打ちを食らったように口元を手で覆い、わずかに視線を彷徨わせた。
明らかに動揺している。
里桜はその可愛らしい反応を見て、少しだけ得意げに笑った。
そして、自分から先に玄関のドアのノブへ手を伸ばした。




